【 立会川緑道 】
 立会川緑道
 碑文谷池と清水池を水源とする小さな流れが、やがて合流し1本の川になります。この川が立会川です。川は目黒区の南部を流れ下り、品川区を経て東京湾に注ぎます。立会川には、昭和20年代までは小魚が泳ぎ、蛍が飛び交うきれいな川でしたが、昭和39年(1964)に暗渠となり、川の姿を見ることができなくなりました。代わりにコンクリートの蓋で覆われた川の上は、道路より一段高い緑道として、整備され、格好の散歩道にねっています。向原小学校の手前から、碑文谷八幡宮も手前までその距離は約1キロメートルあります。緑道の両脇には桜の木が立ち並び、春には一斉に花開いて多くの花見客でにぎわいます。
 【 円融寺 】
 円融寺
  円融寺は仁寿3年(853) 円仁(慈覚大師)が建立した法服寺という天台宗の寺院であった。弘安6年(1283)日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称した。中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数える大寺院でした。寛永7年(1630)
身池対論が行われ、法華寺から日進が臨んだが敗れた。法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされて、元禄11年(1698)再び天台宗の寺院となった。天保5年(1834)経王山円融寺と改称する。不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧された。日源の法脈は、当寺の改宗をもって完全に途絶えていった。当寺の尊像など、祖師像は妙法寺、三宝尊像は立源寺、釈迦如来涅槃之図は常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺など、当山ゆかりの寺院に引取られていった。

「身池対論」 (しんちたいろん)とは、
  德川幕府は、寺領は国主の供養か仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺・日暹(にっしん)と不受不施を主張する池上本門寺・日樹(にちじゅ)との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争をいう。不受不施派は敗れ、弾圧を受けた。
 
【 正泉寺 】 
正泉寺
  元亀3年(1572)、存冏によって開山された。元々は下総国相馬郡(現・千葉県・茨城県の一部)に位置し、「泉応院」という名称だった。天正18年(1590)、徳川家康の江戸入府とともに江戸に移転し、「正泉寺」に改称した。その後、江戸市中を転々とし、承応2年(1653)に三田台町に落ち着いた。明治末期から大正初期にかけて、現在地に移転した。 墓地には、式亭三馬や羽倉簡堂などの墓がある
 

式亭三馬 (しきてい さんば)
江戸後期の戯作者。江戸生。本名は菊地久徳。又は太輔。通称は西宮太助と名乗った。父・茂兵衛は板木師。早くから書店に奉公、自身も古本屋を営んだ。黄表紙に始まり敵討物等を手がけ、合巻形式流行の端緒を作った。本領は滑稽本で『浮世風呂』『浮世床』は人気の代表作でした。文政5年(1822)歿、48才。