【千束八幡神社】
千束八幡神社 (洗足池八幡宮)
 洗足池に鎮座する千束八幡神社は、貞観2年(860)に宇佐八幡宮が勧請され、千束郷の鎮守として祀られたことにはじまるという歴史のある神社。平将門の乱を鎮圧するため下向した鎮守府副将軍の藤原忠方は、乱の平定後、この地に土着しこの神社を氏神としたのだという。この藤原忠方が、のちに日蓮信者となる池上氏の祖といわれている。また、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家は、洗足池で禊ぎをして祈願し、安房から鎌倉へ向かう途中の源頼朝は、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったという。 
 名馬 池月
 治承4年(1180)、安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝がこの地に宿営したところ、池に映る月のような姿のたくましい野生馬が現れこれを捕らえたとの伝承が残る。後に宇治川の先陣争いで佐々木高綱を乗せ、梶原景季の磨墨と競うことになる、名馬「池月」である。頼朝軍はこれを吉兆とし、旗を差し上げ大いに喜んだという。本殿の横に赤目で歯をむく池月を描いた大きな絵馬が奉納されており、さらに境内には池月の像が置かれている。例大祭は9月に行われており、重要無形民俗文化財に指定されている神楽が奉納され、洗足池の秋まつりとして親しまれている
 【 厳嶋神社洗足池辨財天 】
 厳嶋神社 洗足池辨財天
  洗足池の小島に鎮座している「洗足池弁財天(厳島神社)」。創建年代は不明ですが、古くから洗足池の守護神として北側にある小島に祀られていたそうです。創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より幾多の人々の夢枕に辯財天が出現せられ、このことが契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和9年7月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。御祭神は、市杵島姫命。 
【 洗足学園発祥の地 】
洗足学園
  洗足学園の創設者前田若尾は、土佐藩氏族の家に生まれました。東京裁縫女学校を卒業後、錦秋女学校の教員、青山女子学院教員をしていましたが、関東大震災が発生したのち、大正13年(1924)自宅に私塾平塚裁縫女学校を創設しました。そして、2年後、このバス停の前にあるマンションの場に移転して校名も洗足高等女学校と改めました。現在、この地にも、付近にも学園はないが、バス停の名前にその足跡が遺されています。「洗足」という学園名は、地名を冠した命名のように思えますが、そうではなく、前田若尾自身が敬虔なクリスチャンであり、自ら「洗足」と命名したことにもその理念が投影しています。
* キリストは、明日は十字架の上に消えることを悟ったとき、12人の弟子たちの足を一人一人洗ってやって、最後の晩餐の席につきました。イエスは、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭をとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭で拭きはじめました。「主でありまた教師であるわたしが、あなた方の足を洗ったからには、あなた方もまた互いに足を洗うべきである。わたしがあなた方にしたとおりに、あなた方もするように、わたしが手本を示したのだ」と語りました。このように新約聖書「ヨハネによる福音書」第13章には書かれています。若尾はこの教えを理念として、教育の理想を深く思慮し、そしてキリスト教の教えを厚く信仰することを命名した「洗足」に込めたのです。その後川崎市高津区に移転した「洗足学園音楽大学」の教育にも、今日この精神が引き継がれているのです。