顕証寺は、元は西証寺と称していましたが、近江顕証寺から蓮如の子蓮淳を迎えた時に「顕証寺」と寺号を改めました。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541)頃に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作りました。寺内町では顕証寺が一切の支配権をもち、豪族安井氏がこの権利を委されていました。また、本願寺内での蓮淳の地位の高さもあって、交野郡招提や石川郡大ケ塚といった河内国の他の寺内町も統轄するようになりました。
安土桃山時代になると、石山合戦の際に顕証寺は講和派(顕如)、慈願寺は抗戦派(教如)に分かれ、激しい対立関係に発展しました。その後の本願寺東西分裂の際も顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属しました。慶長11年(1606)、顕証寺と安井氏の支配に異を唱える慈願寺と森本行誓ら17名の住人は久宝寺寺内町を出て、旧大和川の本流にあたる現在の長瀬川の東岸、若江郡八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作りました。
慶長19年(1614)から元和元年(1615)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になりました。(現在の本堂は江戸時代中期・正徳6年(1716)の棟札があり、この年再建されたものです)江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えましたが、宝永元年(1704)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺村から寺内村(八尾)に移っていきました。 |
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