慧光寺  (えこうじ)
慧光寺
慧光寺は、蓮如上人の河内布教のあと、文明2年(1470)蓮如上人第6男蓮淳によって萱振城の跡地に寺院の礎が築かれて建立され、門徒衆が増えてきました。その後、元亀元年(1570)織田信長石山本願寺を立ち退かせようとした事で争いが起こり、4年後の天正2(1574)6月に大坂石山本願寺攻めが始まりました。この時、萱振の門徒衆は石山本願寺方に加勢しました。天正8年8月に萱振恵光寺は火を放たれ破壊されました。つづいて石山本願寺も炎上しました。慧光寺は河内一円の門徒衆を指揮して兵糧を集めて本願寺に忠誠を尽くし戦いました。織田信長が天正10年6月2日(1582本能寺で討たれてからは、戦も静まり、慧光寺は河内一円と大和に百ヶ寺の末寺を擁する寺として、平穏が戻りました。しかし、その100年後、貞享2年(1685)久宝寺御坊顕証寺寂淳法師との間で宝物争いが生じ、当時の住職寂永法師は前住職・准良法師と共に萱振慧光寺を退去して摂津国平野郡に東本願寺大谷派大徳山慧光寺を建立しました。この後、萱振慧光寺にあったほとんどの寺宝は、のちに平野恵光寺に渡されました。時は流れて、昭和51年(1971)6月、恵光寺は屋根裏からの出火し、本堂や大玄関、庫裏の一部が全焼したのです。この時、御本尊は当時の住職(淳信法師)により担ぎ出され難を逃れましたが、親鸞聖人真向き御絵像、聖徳太子六歳御像、蓮如上人御絵像などが灰塵に帰しました。しかし、消失に際して東本願寺大谷派本山勝如上人による支援や全国の門信徒の方々のご協力により、消失から3年後の昭和54年、勝如上人の親修による落慶法要を行うに至りました。


       





                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています