御台場
 2019年2月16日(土)、昨年11月以来3ケ月ぶりに、第36回 お江戸散策を実施することになった。コースは、先ず、幕末期、米国艦隊司令長官 G・マシュー・ペリーが、浦賀に来航し、開国を強く迫られたことから、最悪、戦争に至ることをも考慮して、江戸湾防備のために築造した「御台場跡」を見学することにした。つづいて築地魚河岸が移転した豊洲市場を経由して、新橋に至るコースである。 朝10時に、ゆりかもめ「お台場海浜公園駅」に、散策愛好者10名が集合した。駅の周辺は、「フジテレビ本社ビル」「サントリー東京支社」「有明スポーツセンター」も近くにあり、徒歩数分の所には、りんかい線も走っていて、年間多くのイベントが開催される「東京国際展示場(ビックサイト)」も、次の駅に控えるなど、世界に知られている所である。お台場海浜公園駅を北口に出て、数分、北上すると東京湾の浜辺に出る。人工的に浜に白砂を敷き詰めたきれいな海辺である。砂浜に沿って歩くと前方に幕末に建造された「御台場」が立ちはだかるように鎮座している。幕末、お台場は11基建造する計画であったが、諸事情により、6基のみ建造した。明治に入り、2基だけ残存して、残り4基は破却されたという。想像していたより、使用容積は広く、敷地内には大きな陣屋跡や弾薬庫の遺構も多く遺されている。160年前に築造された城塞のような遺構と周囲に林立する現代ビル群の今昔対比が興味深い。現在、公園になっているお台場には、近隣のマンションに住んでいる人たちの恰好の憩い場になっている。
御台場海浜公園

嘉永6年(1853)6月3日のペリー来航は、江戸幕府を長い「鎖国」の眠りから覚ますことになった。 ペリー退帆後、幕府はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に入り、勘定吟味役格江川太郎左衛門英龍らによる江戸湾巡視の結果、内海防備のための御台場築造が決定した。築造計画は、西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築造しようとするものであった。江川太郎左衛門は伊豆韮山に生まれ、同地の世襲代官で坦庵と号した。蘭学者幡崎鼎・渡辺崋山らに師事し、高島秋帆から西洋砲術を学んで精通していた。江川は水野忠邦政権下での高島流砲術の普及と海防強化の実績を買われ、ペリー来航時の阿部正弘政権下では御台場築造位置の選定と大砲鋳造等の任に当たった。工事は嘉永6年(1853)8月末に着手され、日に5000人の土取人夫を動員して、昼夜兼行で進められた。結果、嘉永7年12月に完成した。江川が主張した11基の築造計画は実現しなかったが、その後自らが指揮を執り、6基の御台場完成へと導いた。逼迫している幕府財政から捻出して75万両の莫大な資金を投入して築造した御台場であるが、一つとして砲火を発することなく、明治を迎え、明治6年に海軍省の管轄で管理され、大正4年には東京市に払い下げられ、同15年には国指定史跡となった。その後、御台場は、
第3台場第6台場青い■マーク部)を史跡として残して、他の4基は埋立てられたり、撤去されて姿を消していった。
   つづいて豊洲市場に向かう。狭く、老朽化した築地魚河岸市場の移転先として、東京ガスの工場跡地が選ばれたが、有害物質が大量に含む土壌汚染が検出され、移転反対運動が興ったりして、大問題になったが、2018年10月に移転して、開場され、魚河岸業者、関連飲食店も、すべて営業開始して、連日にぎわいを見せているようだ。本日は、休日でイベントが開催されたこともあり、大変多くの客が入館して、食堂は混雑していた。ここで、昼食を取る予定であったが、1時間待っても食べられないと判断して、次の散策地・東陽院に向かった。日蓮宗の寺院・東陽院は、関東大震災前は浅草にあったが、震災移転して来たとのこと。当山の名が知られているのは、江戸後期に「東海道中膝栗毛」を書き、大ベストセラーの人気作家になった十辺舎一九のお墓があるからである。一九の最期のことばは「・・煙とともに はい左様なら」と言ったそうだが、気持ちが楽天的で、ユーモアにあふれた人だったことが伺える。東陽院は埋め立て地に建てられたことで、墓は本堂の屋内にあるが、寺は気軽に墓参を許してくれた。丁重に御礼を述べて、次の勝鬨橋に進めた。
 
 【豊洲市場】
休日は近郷から多くの人がやって来ます  お寿司屋さんがお客が長蛇の列で大賑わい 
【東陽院】
明治38年、日露戦争の旅順要塞陥落を記念して、地元有志が、隅田川渡船の「勝鬨の渡し」が設置された。時を同じくして、この周辺は工業地帯として、発展していき、人口も増えて、渡船では賄いきれないようになり、架橋運動が起こって来た。その結果、昭和15年に勝鬨橋が完成した。同橋は、珍しい跳開橋で一日に5回跳開していたが、その後、船舶通航の減少と高度成長の進展で道路交通量が著しく増大したことから1970年11月に非跳開の通常架橋になって、今日に至っている。
 【勝鬨橋】
【波除神社】
 波除神社は、築地の守護神として、魚河岸関係者の篤い信仰を受けて、厄除け、商売繁盛のご利益があるとして崇拝されている。
【旧新橋停車場跡】
  旧新橋停車場跡の建物は、日本初の鉄道が開通されたとき建設された鉄道駅舎で、平成15年(2003)に復元されたものである。
ゼロ哩標識や創業時のレールも敷かれていて、日本の鉄道の歴史はここから始ったことを考えると大変興味深い。
報告: 石井義文