平成から令和に来月改元される平成最後の4月に、第37回 お江戸散策を実施しました。散策地は、国分寺市にある武蔵国分寺跡周辺と小金井市にある江戸東京たてもの園を選びました。国分寺市は、東京都の東端にある江戸川区と西端の奥多摩との中間地点にあり、「東京都のへそ」と呼ばれている所です。水と緑に彩られたこの地に、今から1270余年の昔、奈良時代 天平13年(741) に国分寺が造られたのです。当時、国は多くの災害、飢饉に見舞われ、人々は不安と苦しみに苛まれていたのです。時の聖武天皇は人々のくらしを仏教の力で安定させようと考え、全国六十余諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵の国は国分寺崖線に沿った肥沃なこの地が最適地と考えられ、ここに武蔵国分僧寺、武蔵国分尼寺が建立されたのです。今はその建造物はなく、その遺跡が残されているだけですが、変わりゆく世の中のなかでも、変わらない天平の息遣いが残されています。その跡地を訪れて、この世の平和と健やかな暮らしを祈り求めた人々の心情に触れる「こころの散策」をしてみることにしました。本日は好天に恵まれ、しかも桜満開の時に訪れることが出来て、大変幸運でした。国分寺跡を散策したのち、国分寺駅近くにあり東京都の名勝庭園に選ばれている「殿ケ谷戸庭園」を訪れ、そこでランチを取りながら庭園の美を鑑賞しました。(石井義文)
 武蔵国分寺跡周辺地図
  新元号・令和の出展は、天平二年正月、大宰府の長官・大伴旅人の館で開かれた宴会に集まった人々が歌を詠み、その三十ニ首の和歌の頭に掲げてある序文の一節にある「初春の月にして、気淑く  風ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」から選ばれた。
 
 

七重塔が建っていた場所
史跡の駅・お鷹カフェ お鷹の道湧く水園
 
  殿ケ谷戸庭園(随宜園)は説明板によると、「武蔵野段丘の南縁、国分寺崖線と呼ぶ段丘崖とその下端部付近の礫層から浸出する湧水を利用し、雑木林の風致を生かして造られた近代的別荘庭園です。この庭園を造ったのは、三菱合資会社社員で、のちに南満州鉄道副総裁から貴族院議員にもなった江口定條(さだえ)で、のちに三菱財閥一族の岩崎彦弥太が買い取り、庭園内に紅葉亭を建て、湧水でできた次郎弁天池を中心にした和洋折衷の回遊式庭園を完成させた。昭和49年東京都が買い取り、国の名勝となった。」と説明されています。
 新緑につつまれた庭園の風景を紅葉亭から鑑賞しながらのランチタイム
国分寺駅より東小金井駅まで、中央線電車で移動し、駅前から「江戸東京建物前」までシャトルバスにて移動しました
  江戸・東京は、幕末から今日に至る間、安政大地震、関東大震災そして太平洋戦争による戦災、その他により多大な人命の犠牲と貴重な文化財が消失する災害に見舞われました。このような歴史から、失われてゆく江戸・東京の歴史上、貴重な建物や文化財を移築して保存し、後世に遺して、広く大衆に紹介しようとする機運が盛り上がりました。そして、それらを集合展示して、保存するための公園が、平成5年(1993)に小金井市に建設されました。それが 「江戸・東京たてもの園」です。われわれの少年期を思い起こさせてくれる住居や商店もあり、見学しながら、楽しめて、むかし話に花が咲いた見学ツアーでした。(G)
 江戸東京たてもの園内地図
自証院は将軍家光の側室。尾張藩主へ嫁いだ娘千代姫が寄進した霊殿  前川国男は「東京文化会館」「神奈川音楽堂」設計した建築家
 江戸時代、八王子に配備された家臣団を八王子同心組みと飛ばれていました。式台付きの玄関に格式を感じます。
 奄美大島にある高床式の倉庫。湿気やネズミの害から穀物を守るために、建物本体を地面から高く上げている
 江戸時代、三鷹で名主をしていた家 後に、カルピスの命名者・三島海雲が棲んでいた 
 高橋是清は岡田内閣大蔵大臣のときに2.26事件の犠牲になりました。この家はそのとき住まいしていた家です
宗偏流の茶人・山岸宗住(会水)が建てた茶室。後に、劇作家・宇野信夫が買い取り使用した
総欅造りで、 むくり屋根の片番所を付け、門柱の冠木には家紋が付く 上野池之端に在った小間物・化粧品の店 
 天明家は、江戸時代鵜木村の名主を務めていた家です
北千住にあった銭湯です。神社仏閣を思わせる大型の唐破風や室内天井など贅をつくした造りになっています
 江戸東京たてもの園を後にして、小金井公園方面を見学散歩してから、最寄り駅・武蔵境へ進むことにしました
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