第36回 お江戸散策 御台場跡・豊洲界隈 解説
1.御台場海浜公園
嘉永6年(1853)6月3日のペリー来航は、江戸幕府を長い「鎖国」の眠りから覚ますことになった。 ペリー退帆(たいはん)後、幕府はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に入り、勘定吟味役格(ぎんみやくかく)江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)らによる江戸湾巡視の結果、内海防備のための御台場築造が決定した。築造計画は、西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築造しようとするものであった。江川太郎左衛門は伊豆韮山に生まれ、同地の世襲代官で坦庵(たんあん)と号した。蘭学者幡崎鼎(はたさきかなめ)・渡辺崋山らに師事し、高島秋帆(しゅうはん)から西洋砲術を学んで精通していた。江川は水野忠邦政権下での高島流砲術の普及と海防強化の実績を買われ、ペリー来航時の阿部正弘政権下では御台場築造位置の選定と大砲鋳造等の任に当たった。工事は嘉永6年(1853)8月末に着手され、日に5000人の土取人夫を動員して、昼夜兼行で進められた。結果、嘉永7年12月に完成した。江川が主張した11基の築造計画は実現しなかったが、その後自らが指揮を執り、6基の御台場完成へと導いた。かくして、逼迫している幕府財政から捻出して75万両の莫大な資金を投入して築造した御台場であるが、一つとして砲火を発することなく、明治を迎え、明治6年に海軍省の管轄で管理され、大正4年には東京市に払い下げられて、同15年には国指定史跡となった。その後、御台場は、第3台場と第6台場を史跡として残して、他の4基は埋立てられたり、撤去されて姿を消していった。
2. 豊洲市場
 東京都は、築地市場(中央区)が取り扱い数量の拡大により施設が手狭になったことや、施設老朽化、銀座などに近い豊洲という立地の良さなどを鑑み、2014年を目処に江東区豊洲への移転が計画された。移転先予定地は東京ガスの施設が立地していた土地であるが、問題が発生した。土壌汚染である。国の環境基準を大きく上回る鉛、ヒ素、六価クロム、シアン、水銀、ベンゼンの6種類有害物質が地中から検出された。発癌性物質であるベンゼンにいたっては局地的ではあるが、国の基準の43,000倍にも達していた。こうした安全・衛生面や移転に伴う経費等の負担への不満、築地に対する愛着を抱く一部仲卸などにより、移転反対運動が起こった。都は安全面での対応としては、2012年度より豊洲新市場土壌汚染対策工事およびそれに関する技術者会議を行った。その後も、いくつかの問題点が生じて、延期されたが、2017年6月、新市場建設協議会は築地に代わる新市場として発足する事を正式に決定し、2018年6月頃に移転し、開場日は2018年10月11日とすることが公表された。名称は「豊洲市場」とすることが決定した。豊洲市場は環二通りと東京都市計画道路補助第315号線の交差点を中心に5街区から7街区の3街区に跨がって建設された。
東側の5街区に青果棟、西側の6街区に水産仲卸売場棟、南側の7街区に水産卸売場棟および管理施設棟が配置されている。管理棟には、築地市場にあった約3000冊の資料を所蔵する「銀鱗文庫」も移管された。また水産業者などから信仰される「魚河岸水神社」の遥拝所も、築地市場から豊洲市場敷地内へ遷座された。
豊洲市場の特長は、
・他市場への転配送施設を設置するなど、首都圏のハブ機能を確立する。
・搬入から搬出までの一貫した物流システムを確立するなど、取引・物流両面の効率化を図る。
・高度な衛生管理、よりよい品質管理が可能となる施設整備や体制作りを行うなど、安全・安心の市場作りを行える点が上げられる。
3. 日蓮宗東陽院
十返舎一九は本姓を重田といい、明和2年(1765)駿河(静岡市)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者・蔦屋重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも、「東海道中膝栗毛」は大ヒット作品となる。主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢神宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、一九の代表作となった。 天保2年(1832)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られた。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移された。 墓石には次の辞世が刻んである。
「 此世をば どりやお暇に 線香の 煙と共に はい左様なら」墓は、句の歴史や文化に関わりの深いものとして、中央区民文化財に登録されている
 4 勝鬨橋(かちどきばし)
 明治38年(1905)日露戦争の旅順要塞陥落を記念して、地元区民有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し東京市に寄付しました。勝鬨の渡しは住民や月島の工場に通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。その後月島一帯は工業地帯として発展していき、労働人口が増えると、架橋運動が起こり、昭和15年(1940)勝鬨橋の完成ともに勝鬨の渡しは廃止されました。勝鬨橋は可動橋(跳開橋)で設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していて、この頻度はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と高度経済成長の進展で道路交通量が著しく増大したことや航行する大型船舶がなくなったことから1970年11月29日を最後に開閉が停止となり1980年には電力供給も停止され、通常架橋として利用されている。
5. 波除(なみよけ)神社
 徳川家康が江戸に入府する前、この築地一帯は一面の海で海であった。開府後、天下普請の名の基に築地一帯の埋め立てが行われたが、築いた堤防は激波にさらわれて崩れてしまう状態が繰り返した。ある夜、海面に光を放って漂うものがあり、引き上げて見ると稲荷大神の御神体であった。皆は畏れて、現在の地に社殿を造営して盛大に祀り、波が穏やかに静まることを祈願した。それからというもの波は治まり、埋立と堤防工事は順調に進んで、万治2年(1659)に工事は完了した。人々は、その御神徳のあらたかさに驚き稲荷大神に「波除」の尊称を奉った。これが波除神社は築地の守護神として今日にいたるまで広く崇拝されている。境内には、神社大神輿殿、獅子殿などの文化財があり、魚河岸関係者から奉納された鉄製手水鉢、賽銭箱、顕彰碑が並び、これらを見分するのも楽しい。

6. 新橋停車場跡
 東京都港区東新橋にある駅舎跡。明治5(1872)、日本初の鉄道が開通した当時の新橋停車場を復元したもの。創建時の旧新橋停車場は、明治4(1871)に、アメリカ人建築家ブリジェンスの設計により建設された。構造は木造の柱や梁で組むが、外壁のみ石造りブロックを積み上げる方式で、外観上は一見石造りの建物。停車場は、大正3(1914)に東京駅の開通で貨物専用駅となり、汐留駅と改称。
大正12(1923)の関東大震災で駅舎は焼失し、昭和9(1934)の汐留駅改良工事で創建時のホームや施設も失われたが、その跡に「0哩(マイル)標識」が設けられ、昭和40年(1965)に国の史跡に指定された。平成3(1991)の発掘調査によって停車場の遺構が発見され、平成12(2000)に、改めて「旧新橋停車場跡」の指定を受け、平成15(2003)、復元駅舎が完成した。