稲村ケ崎・江ノ島 界隈
 常楽寺(臨済宗建長寺派)は、三代執権北条泰時が、嘉禎3年(1237)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。その供養には、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇が導師を勤めた(宗旨は密教系であったといわれている。)。仁治3年(1242)に亡くなった北条泰時はこの地に葬られた。のちに、五代執権北条時頼が、中国宋から来日し壽福寺に寓居していた蘭渓道隆を招き、禅の道場が開かれた。道隆が建長寺を開く前に、この地で禅を広めていたので、常楽寺は「建長寺の根本」と称されている。
稲村ケ崎
 成就院
 江ノ島
 児玉神社
 後藤新平は、台湾では尊敬する日本人のなかでも上位に選ばれているという。彼は医師として、台湾に赴任して、全土において公衆衛生の徹底をはかり、保健所、医療施設を多くの市町村に建てた。そのおかげで、台湾では感染病が激減したのです。 この施策に予算を施し全面的に許可したのが、台湾総督であった児玉源太郎でした。後に、満州鉄道総裁、東京市長、内務大臣に栄転する出世を遂げました。後藤は、児玉によって見出されたその恩義を修正忘れなかったといわれています。

龍口寺
  この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。その後延元2年/建武4年(1337)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。 なお、本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601)に土地を寄進して以来のこととされている。明治19年(1886)までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していたが、現在は置かれている。 (Wikipediaより)
常立寺
常立寺の五輪塔は文永の役(1274)の翌年、建治元年に元から降伏勧告に使わされ、使者・杜世忠ら五人の元使たちが斬首されたのち建立された供養塔と伝えられています。その後、元は、再度日本を襲撃(弘安の役 1281)しましたが、前回同様、台風の到来で多くの船や兵を失い、退去しました。 
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