大久保長安
大久保長安は武田家の家臣として金山や銀山などの鉱山開発に功績がありました。1582年に武田家が滅亡したのち、徳川家康の家臣として働くようになりました。家康に仕えた当初は、土木工事や土地台帳の作成に尽力していましたが、すぐれた鉱山開発の高い能力を家康に認められて徳川領内の鉱山代官として任務し、大きく生産性を高めさせました。その覚ましい活躍から大久保長安は家康に寵愛され、出世街道を駈け登っていきました。関ヶ原の戦い後、佐渡金山や生野銀山の検分役や接収役を務め、1601年には甲斐奉行などの要職につき、徳川政権の鉱山開発に関する中心人物になりました。金銀開発のノウハウを持っていた大久保長安は、金銀経営策を次々に打ち出し佐渡金銀山は最盛期を迎えています。労働者10万人以上と坑道が300箇所を超え、江戸幕府の富裕財政に大きく貢献しました。しかし、晩年は金山の収穫量が減少し、家康からも遠ざかるようになり、多くの役職を罷免されていきました。1613年、目覚ましい活躍を続けた生涯は69歳でその幕を閉じました。 |
|