伊東市 物見塚公園
  物見塚公園は、平安時代末期の伊東の領主伊東祐親の居館があった処で、伊東市役所に隣接し、遠くリゾート地、
初島が望める小高い丘の上にあります。かつて館だった頃に、櫓を組んで敵情の見張りをしたと伝える物見の松や
伊東祐親の騎馬像が立っています。
東林寺
  東林寺(とうりんじ) 本尊は地蔵菩薩。
  東林寺は伊東祐親が、わが子河津三郎祐泰の菩提を弔うために創建した寺院。
もとは、久安年間(1145~1150)頃に、真言宗の久遠寺として開かれたが、祐親の法号に因んで東林寺と改名した。天文7年(1538)に曹洞宗に改宗された。伊東祐親は治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させたが、富士川の戦いの折に捕らえられ、預けられていた三浦義澄邸で自刃したと伝えられている。以後、東林寺は伊東家の菩提寺となった。本堂には伊東祐親や三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像を安置している。墓所には、河津祐泰・曽我兄弟の墓がある。また、当山は葛見神社の別当寺でもある。
 伊東祐親と工藤祐経と曽我兄弟
 伊東氏は伊豆国の伊東荘を領していた工藤氏の一族であった。
伊東祐親の祖父工藤祐隆は、嫡男の祐家が若くして病死すると後妻の連れ子(娘)との間にもうけた祐継を嫡子として伊東荘を与え、祐家の子祐親には次男として河津荘を与えた。これを不満に思った祐親は、祐継が亡くなると、その子工藤祐経の所領を横領した。
 安元2年(1176)、伊豆国に流されていた源頼朝を慰めるための「狩猟」が催された。その帰路、祐親と子の祐泰が、所領を奪われた工藤祐経の兵に襲われ、祐泰が命を落とした。これから17年後の建久4年(1193)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りで起こった「曽我兄弟の仇討ち」は、このとき殺された祐泰の子十郎祐成五郎時致が親の仇として工藤祐経を討ち取った事件で、日本三大仇討ち事件として知られるが、その因果はここ伊東にあったのである。

葛見神社
  葛見神社(くずみじんじゃ)
 葛見神社は、伊東氏の守護神を祀り、伊東氏の尊崇と保護を受けた神社。祭神は葛見神・倉稲魂命(稲荷神)・大山祇命。
かつてこの辺りは「葛見の庄」と称され、伊東氏の初代家次が社殿を造営し、京都の伏見稲荷大社を勧請して以来、神威を高めてきた。伊東氏の菩提寺である東林寺が別当寺を勤めていたが、明治の神仏分離によって東林寺の住僧が還俗して朝日氏を名乗り、以来朝日家が神職を世襲しているという。境内に聳える大クスは、樹周20メートル、樹齢は1000年以上といわれ、伊東市の天然記念物に指定されている。