宇都宮市内散策
  令和3年(2021) 4月7日。現役時代、仕事で幾たびか訪れた宇都宮の町ですが、市内をゆっくり観光したのは、今回が初めてでです。駅前の東横インから、旧家、篠原家~興禅寺~田川サイクリングロード~清厳寺~二荒山神社~蒲生神社~八幡山公園~祥雲寺・・(馬場通りからバス)・・大谷資料館、観音・・(馬場町)~宇都宮城趾~大銀杏~東武宇都宮までの、五時間余りの歩きんぐを楽しみました。好天気に恵まれ、煩わしい交通渋滞もなく、満開の桜を観賞できた、二重丸の散策でした。
旧篠原家住宅
 篠原家は江戸時代から醤油醸造業や肥料商を営む旧家で、屋号を堺屋と称し、当主は代々友右衛門を名乗った。母屋と石蔵3棟からなる。店舗を兼ねた土蔵造の2階建て母屋は明治28年(1895)に建てられたもので、1、2階併せて300m2ある。黒漆喰や大谷石を用いた外壁、建物正面の木組みの格子戸、45cm角のケヤキの大黒柱など、豪壮な造りとなっている。
興禅寺
興禅寺は宇都宮城主宇都宮貞綱を開基として、正和3年(1314)に創建された。かっては、多くの塔頭をもつ大寺院であったが、慶長2年( 1597)の豊臣秀吉による宇都宮氏改易により衰退していった。江戸時代に入ると、初期の城主奥平家昌によって再興された。三門を入ると宇都宮貞綱・公綱の墓とされる大きな五輪塔がある。貞綱の子公綱は南北朝時代に活躍し、楠正成に「板東一の弓取り」と絶賛された武将であった。また、案内板に「史蹟 浄瑠璃坂の仇討」とあるのは、この寺院で行われた奥平家の法要の時に起きた小事が、大仇討ち事件に発展した「ゆかりの寺院」であるからである。(別記参照) 
田川サイクリング道路
   田川(たがわ)は、栃木県日光市を源流とし、宇都宮市、下野市を流れ、同県小山市で田川放水路を経て鬼怒川に合流する一級河川である。旧水路は栃木県小山市から茨城県結城市に至り鬼怒川に合流するが、田川放水路の整備により河川としての実質上の合流点は小山市となっている。古来、田川下流は「暴れ川」であった。多雨季の氾濫によりその流路は度々変更され、氾濫域には肥沃な土壌が形成された。江戸時代以降、田川からは宇都宮藩や幕府によって近隣地域に灌漑用水が引かれ、田畑を潤し、豊作を促した。中でも二宮尊徳が宇都宮北西部の台地に引水した宝木用水(新川)や、は著名である。
清厳寺
  清厳寺は、城主・宇都宮頼綱が宿郷に建てた念仏堂に始まるという。これを宇都宮一族の芳賀高継が、天正元年(1523)兄高照の菩提を弔うため現在地に移したという。三門を入った右手の収蔵庫には鉄塔婆が納められている。
 
二荒山神社
平安から鎌倉時代には各々の国で最も格式が高いとされる神社を一之宮としました。二荒山神社もまた「下野国一之宮」とよばれ、 宇都宮はこの二荒山神社を中心に、平安・鎌倉時代には神社の門前町として発展し、江戸時代には城下町として繁栄しました。二荒山神社には、荘厳な拝殿、本殿、神楽殿などが建立されていますが、これらは戊辰戦争のとき焼失し、現在のものは、1877年に再建されたものです。 
神門   拝殿
 神楽殿  神馬
 蒲生神社
 戦国武将・蒲生氏郷の末裔と伝わる蒲生君平は、1768年下野国宇都宮の油商の家に生まれる。林家の門下で朱子学を修め、太平記を愛読して、尊皇思想に傾倒していく。のちに、藤田幽谷から水戸学の影響を受けた。荒廃した全国の天皇陵を踏査して、「山稜志」を著わし、のちの尊皇論に大きな影響を与えた。「前方後円墳」という言葉は初めて君平が用いた言葉である。明治維新の後、明治天皇は君平の業績を讃え、勅命により郷里である宇都宮に石碑(蒲生君平勅旌碑)が建立された。林子平、高山彦九郎とともに寛政の三奇人にあげられる。
官庁
八幡山公園
  宇都宮市の中心部に位置するこの公園には、市内を一望できる宇都宮タワー、大型複合遊具やゴーカートのあるアドベンチャーU、タンチョウやウサギのいる動物舎など、子供から大人まで楽しめる施設があります。また、自然の丘陵を活かした園内はお花の名所としても知られ、約800本の桜と約700株のツツジが植えられており、お花見のシーズンにもなると、毎年たくさんの来場者で賑わいます。入園料は無料。宇都宮タワーは190円。
祥雲寺
 祥雲寺は曹洞宗の寺院で山号は戸祭山。境内には祥雲寺観音霊場があり、当寺境内で西国三十三所観音霊場の観音巡りができる。本堂に向かう道沿いに並ぶ十六羅漢像と県指定天然記念物「しだれ桜」は圧巻である。
大谷資料館 ・ 大谷寺 ・ 平和観音
大谷寺、平和観音へ行く途中の風景
 大谷資料館の地下採掘場跡は、大正8年(1919)から昭和61年(1986)までの約70年をかけて、大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間です。その広さは、2万平方メートル(140m×150m)にもおよび、野球場が一つ入る巨大な大きさです。 なお、坑内の年平均気温は8℃前後で、地下の大きな冷蔵庫としても可能です。戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用され、現在では、コンサートや美術展、演劇場、 地下の教会として、また写真や映画のスタジオとしても注目されています。
 大谷石(Ohyaishi)は、宇都宮市の大谷町付近一帯で採掘されたことでその名が付いた。軽石凝灰岩で柔らかく加工がしやすく耐火性、防湿性に優れ、古くから外壁、門柱、土蔵などなど幅広い用途の建材として使用されていた。旧帝国ホテル日本館をアメリカの名建築家フランク・ロイド・ライトが採用して建造し、巨大な関東大震災にも耐えたということで、大谷石の評判は一挙に高まり、震災後の東京復興に、公共施設ばかりでなく、一般住宅にも広く使用されるようになった。
大谷寺
 天台宗 大谷寺(Ohyaji) は板東三十三観音19番札所として、平安・鎌倉時代より人々から篤い信仰を受けている。観音堂には、平安・鎌倉期につくられた日本最古と言われる 10体の磨崖仏や像高4.9mの石造千手観音立像、石造釈迦三尊像、石造薬師三尊像、石造阿弥陀三尊像が安置されている。
平和観音
 平和観音は、高さ27mあり、大東亜戦争の戦没者を慰霊し世界平和を祈念するために、
昭和23年、崖壁に彫り始められ、昭和26年(1951)に完成した。
宇都宮城趾公園
 宇都宮城は、中世は宇都宮氏、近世は奥平氏、阿倍氏、松平氏、戸田氏ら、德川譜代の大名が治めた関東七名城の一つと言われてきた。しかし、戊辰戦争により、幕府方に付いたため、政府軍に徹底攻撃を受け、城のほとんどを焼失した。さらに、明治時代以降の都市開発に伴い、土塁や堀も失われてしまった。平成元年(1989)本丸跡調査を経て、2004年に、宇都宮城趾公園として整備が始まり、2007年に本丸西側の土塁と堀、土塁上の土塀、清明台と富士見櫓の二櫓が復元されて、往時の城の面影を留めている。
 宇都宮城三の丸と百間堀の境の土塁上にあった樹齢300年の大木で数少ない宇都宮城の名残りである。樹高は30mある 
函館トラピス修道院を手掛けたスイス人建築家マックス・ヒンデルによって設計されたロマネスク様式教会で昭和7年に完成した。
本日は快晴に恵まれ、視界良好。誠に快適な ”歩きんぐ” でした。