六義園  】
 六義園
 六義園は五代将軍・德川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が、元禄15年(1702)自ら設計して和歌の趣味を基調として完成させた回遊式築山泉水の大名庭園です。園内は、紀州和歌浦の景勝や古に和歌で詠まれた名勝ばかりでなく、中国古典の景観が八十八境として映し出されております。池を巡りながら、移り変わる景色を楽しみ、そして和歌を詠むという平安貴族的な趣向を嗜めるように工夫されております。園名は古今和歌集の序文にある「六義」に因み命名されました。この
六義とは、 詩道(和歌)の根本を構成する「」のことで、和歌は六体に分類されています。すなわち「そえ歌「かぞえ歌」「なぞらえ歌」「たとえ歌」「ただごと歌「いわい歌」を指しますが、園名はこれに由来したものです。柳沢吉保自身が撰した「六義園記」では日本風に「むくさのその」と呼んでいましたが、現在は、漢音読みを採用して「りくぎえん」と読んでいます。このように六義園は、江戸元禄時代を代表する和歌の趣向溢れた大名庭園なのです。明治時代に入ってから、三菱の創業者・岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年(1983)に東京市に寄付され、今日に至っている貴重な文化遺産です。
【 東京外語大学跡地 】
【 浄心寺 】
 江戸三十三観音札所 第十番 浄心寺
本尊は阿弥陀如来立像、脇侍右が十一面観世音菩薩、左が勢至菩薩。
門前の布袋尊と本堂の巨大木魚が知られている。
立川談志
 1936年、東京都文京区白山に生まれる。終戦後は結婚まで大森区鵜の木に居住していた。16歳で55代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。1954年3月、二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席のほかに日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。 1962年、3月に、入門が5年遅い3代目古今亭志ん朝が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い5代目三遊亭圓楽にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、立川談志を襲名し、真打に昇進。テレビ、ラジオに引っ張りだこの活躍をし、人気番組『笑点』も談志が、自ら企画して実現したものである。2008年、喉頭がんを患い、長い闘病生活を送ったが、2011年11月死去した。享年75歳。