【勝海舟別邸- 洗足軒跡】
 勝海舟別邸 (洗足軒)​
  幕末、鳥羽・伏見の戦いで敗れた江戸幕府側は官軍の西郷隆盛と交渉するために、幕府の代表として勝海舟を官軍が本部を置いていた池上本門寺へ出向かせた。結果として、江戸の町は戦禍に飲み込まれることなく、無事江戸城は、官軍側に引き渡されることになった。(江戸開城)。 その交渉の際、勝海舟は本門寺へ行く途中、通りかかった洗足池の景色に魅かれた。
このとき詠んだ海舟の歌:  
池の藻に 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし  
のちに、農学者・津田仙(津田梅子の父)の仲介で当地に土地を求め、1891年に別邸を建てた。これが洗足軒である。茅葺風の民家であったが、戦後焼失してしまい、現在、跡地は大田区立大森第六中学校になっている。 1899年に勝海舟は死去した。生前より、勝海舟は当地に葬られることを希望し、現在、洗足池湖畔に墓がある。
 勝海舟記念館​ (旧・清明文庫)
    清明文庫は、海舟没後、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧、講義の開催等を目的として、(財)清明会が昭和8年に開館しました。平成12年に国登録有形文化財に登録され、平成24年に大田区の所有となりました。大田区は、令和元年9月、郷土博物館条例に基づき、総事業費11億円、展示資料購入費2870万円をかけて、鳳凰閣の東側面に併設する形で旧清明文庫を増築し、勝海舟記念館として開館しました。オープニングセレモニーにはアメリカ人と国際結婚した勝の三男であった梶梅太郎の末裔で、ペンシルベニア州Juniata Collegeで歴史学准教授として勤めるダグラス・スティフィラー(勝の玄孫)も駆け付けた。 収蔵品は勝直筆の手紙や日記、複数使い分けた印章、袴や大礼服など45点。特に史料関係では、幕府に軍艦建造などを説いた『海防意見書』の草稿、無血開城を巡って福沢諭吉と論争になった「痩せ我慢の説」の往復書簡、咸臨丸の航海日記なども紹介されている。
 【勝海舟墓所】
南洲留魂詩碑
  勝海舟が親交のあった西郷隆盛(南州)の死を悼み、西郷の詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。もとは、葛飾区木下川薬師の浄光寺に建てられたが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い、当地に移転されました。内容は隆盛の漢詩は、文久3年(1864)、薩摩藩国父島津久光の怒りを蒙り、沖永良部島に流罪とされた時の作で、「獄中に感あり」と題する七言律詩であった。死後もこの世に魂魄を留めて、天子の皇城をお護りしたい」という隆盛の忠誠心を人々に広く知らしめ、それによって逆賊の汚名を晴らしたいという切なる願いによるものでありました。 
徳富蘇峰碑:  勝海舟の門下生の1人であった蘇峰が勝と西郷の偉業を称え、両雄を偲んだ詩文が刻まれています。
 南州建碑記
留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠治郎が明治16年(1883)に建立しました。谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。

勝海舟追慕碑
 大正2年(1913)に勝海舟門下生・富田鉄之助が記したものです。