洗足池、碑文谷公園界隈
【 洗足池 】
 洗足池
  湧水池であり、流れ込む川はないが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいた。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在は清水窪弁財天の涌水が残っている。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れている。この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。由来としては仏教用語の千僧供料の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとり(後に妙福寺が建立)で休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。 日蓮が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残っている。池の北側の中島には弁才天が祀られている。
 【  妙福寺  】
妙福寺
 1282年日蓮上人がに身延山から、武蔵国・池上にある池上宗仲の館(現・本門寺)に向かう途中に、近隣の大池 (現・洗足池)にさしかかった。その際日蓮はここで休憩を取り、傍の松の木に法衣をかけて(袈裟かけの松)、池の水で手足を洗った。これに因んで、この池を
洗足池と言われるようになった。すると、池から七面天女が現れたという。後に、このことを記念して七面天女を安置するお堂を建てた。この堂を「御松庵」と名付けた。一方妙福寺は日慈が、現在の中央区の日本橋馬喰町に寛永年間以前に草創した寺である。しかし、1657年の明暦の大火のなどで本堂などが焼失し、浅草に移転したが、後年、1923年の関東大震災でまたも焼失して、1927年に当地に移転してきて既存の御松庵と合併して、妙福寺として再建された。