日目      その 2019.08.04 
桶狭間古戦場・高徳院・戦人塚
桶狭間古戦場
桶狭間の戦い一番手柄は
  
桶狭間の戦いにおける織田戦勝の一番手柄は、今川義元へ一番槍で手傷を負わせた服部小平太や義元の首級を上げた毛利新助ではなく、、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝えた簗田政綱という武将であった。簗田はこの功績により、信長から沓掛城を与えられ城主になっている。「三河後風土記」によると織田の重臣たちが口を揃えて突撃行動を諫めたが、政綱は信長の奇襲攻撃に同意し、密かに今川義元の本陣を突き止め、裏手へ兵を動かして敵陣を攻撃したという。 
 高徳院
戦人塚 
 戦人塚
 永禄3年(1560)5月19日、駿河の太守・今川義元は織田信長の奇襲を受けて桶狭間で戦死した。この桶狭間の戦いで敗死した今川方の将兵の数は約2500名とされている。この遺体を埋葬したのが、近くの曹源寺の住職であった快翁龍喜であった。塔頭の明窓宗印に命じて村人を動員して各所に塚を造り、戦死者を埋葬した。これが戦人塚であるが、当初は駿河塚と呼ばれていた。その後、塚の多くは宅地化され消滅したが、この塚だけは代表的なものとして残された。現在、塚の上にある供養碑は、元文4年(1739)に第180回忌の供養として建てられたものである。