名古屋城 

 名古屋城
   関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)に江戸幕府を開きます。しかし、大坂城には、いまだ幕府にとって脅威だった豊臣家が拠点を置き、次の戦に備える必要がありました。家康は、慶長15年(1610)、加藤清正福島正則など豊臣恩顧の西国大名20家に命じ、天下普請として名古屋城の築城を開始します。それは豊臣方の包囲網と東海道の防衛を固めるとともに、諸大名への抑止効果も兼ねていました。家康の子・義直が初代藩主として入り、盤石の体制を整えた名古屋城から大坂冬の陣・夏の陣へ出陣。その後、御三家筆頭・尾張徳川家の居城として、江戸260年にわたって栄えました。 名古屋城の築城がはじまった慶長15年(1610)は、天正4年(1576)の安土城築城によって確立されたと言われる近世城郭築城技術の完成期にあたります。そのため徳川の威信をかけた名古屋城には、当時の最新の技術が注ぎこまれました。金鯱を頂く五層五階の天守は史上最大級で、最新形式の層塔型。狩野派の絵師による障壁画や豪華な飾金具などをしつらえた本丸御殿は、武家風書院造の代表的な建築とされています。他の城郭の天守に匹敵する巨大な隅櫓、広大な二之丸庭園、高い石垣と深い堀、堅固で巧妙な縄張などを備え、近世城郭の完成形といえるものでした。尾張地方は名古屋城築城までは清須が中心でした。しかし、家康は尾張徳川家の拠点として名古屋の地を選び、築城にあわせて清須から町ぐるみの引越し「清須越」を行います。名古屋城の二之丸付近には中世に那古野城がありましたが、家康は、その縄張を継承するのではなく、自身の強い意志の下に、新たに名古屋城と碁盤割(ごばんわり)の城下町をつくり上げました。それが現在の名古屋のまちづくりの原型となっています。
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付録

                                                                                                                                                     つづく