京都御所(堺町御門、閑院宮邸宅、宗像神社)
堺町御門
  文久3年(1863)8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津、薩摩藩らは、三条実美ら過激派公卿七人と尊攘派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。世に言う堺町御門の変(八月十八日の政変ともいう)である。堺町御門警備担当の長州藩が御門に集結したとき、門は会津、薩摩藩兵で固められ、門内に入ることが許されませんでした。この政変の結果、長州藩兵は京都から追放され過激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都は一時的に公武合体派体制が成立しました。 
 宗像大神
宗像大神は、別の御名を道主貴(みちぬしのむち)と申しあげ、全ての道を司り給う大神の尊称です。宗像大神は、上代より世の道、人の道をはじめ交通の守護神主宰神として御神徳が高く、遺唐使や朝鮮、中国大陸など、各方面に渡航する人々は必ず福岡の宗像大社で道中安全を祈願されています。人が歩む道、文化、芸能をはじめ交通、産業の道の安全繁栄の守護神です。一般に、うみの神として親しまれ、海産、生産、出産の他、交通・旅行・運送に関わる祈願が多いです
 花山院邸跡・「花山稲荷大明神」

  花山稲荷の駒札には『太政大臣を務めることもある藤原北家花山院家の邸宅は、平安時代に花山法皇御所を伝領したものです。最初は清和天皇の皇子の貞保親王邸でしたが、関白藤原忠平邸となり、その後は左大臣藤原(花山院)家忠の父である関白藤原師実へと引き継がれました。社伝によると、関白藤原忠平の時に衣食住の守護神として伏見稲荷を勧請したとされ、七清華花山院家の稲荷であるため高い御神徳を多くの人々が求めたと伝わる。「多聞院日記」には「天正2年正月、奈良にて狐を殺めた少太郎が病となり、花山稲荷の四句と花山院家の護符に頼ろうとした」とある。 「翁草」には「諸国の狐は代々、花山院家に陪従す。故に昔より禁裏回録度々有るといえど、此家焼る事なし。宝永5年の大火にも、猛火の中に独此家は火を遁る、天明の大火も同前なり。嘗めて聞く、炎の中に化人雲霞の如く、彼家を守護して火を防ぐ共、又は通力にて酒水の法を行う共伝り」とあり、「和漢三才図絵」にも載っています。
  但馬国美含郡竹野谷の「京都花山院参詣控」や大名松前家へ花山院家の姫君が嫁ぎ御分霊を祀るなど、日本各地に御神徳を授かった記録があり、稲荷信仰の拠点でした。日本三大稲荷のひとつで、西の日光と呼ばれる佐賀県の祐徳稲荷神社も花山院家の姫君が大名鍋島家へ嫁いだ際に祀った御分霊であり、祐徳は姫君の諡(おくりな)である。花山稲荷は親しみを持って「花山さん」と呼ばれ、火防せの神様としても篤い信仰を集め、花山講や燈明講といった数多くの講があり、参道の大型燈籠も講による奉納である。その信仰は遍く広がり、京都を中心に庶民から公家・宮中さらには江戸の徳川将軍家をはじめ諸大名の江戸屋敷にも御分霊や御札が祀られました。
  


       



                                                                                                                                                   
                                                                                                                                                                    * 写真は一部、web上から拝用させていただいています