金谷~ 蓬莱橋 ~島田
本日は8月31日。名古屋のホテルを7時過ぎに出でて、新幹線で豊橋へ。飯田線に乗り換え
JR豊川に向ふ、名刹 妙厳寺(豊川稲荷)を散策し、三明寺に立ち寄りて、再び豊橋駅へ。
この駅より新幹線にて掛川に向い、在来線にて、金谷駅に下車。
周辺の史跡を散策しつつ、大井川に向い、ここに架かる長い陸橋を渡りて、川沿いを歩く。
途中、2回の休憩タイムを取りて進み、ようやく目的地、「蓬莱橋」辿り着く。
かねてより、憧憬をいだいていた蓬莱橋を歩く喜びに浸りて、橋を往復す。
帰路、島田駅まで循環バスに乗る。本日、あまりの長き道のりにて脚が疲労困憊す。
仲田源蔵
  明治維新の頃、荒れ地であった牧之原の開墾に期待を懸けたのは士族ばかりではありませんでした。明治3年、大井川の川越え制度が廃止されると、身体ひとつで暮らしてきた川越人足たちも職を追われ、潰しがきかない仕事をしてきた人足たちは新しい職を探そうにもみつからず、中には自暴自棄になって危ない事を口走る者も少なくなかったといいます。このとき、政府に川越人足たちの救済を嘆願した人物が仲田源蔵でした。源蔵は、天保13(1842)年金谷町に生まれ。身長180センチ、体重92キロの偉丈夫であったといいます。17歳で江戸の商家へ奉公に出て帰郷後に家業の醤油屋を継ぎました。金谷宿川越し人足代表として嘆願に上京した当時、源蔵は29歳という若さであったにもかかわらず人足たちの世話をやき、私財を投じ借金をしてまで手厚い援助の手をさしのべたのです。若年にもかかわらず人足たちから全権を移譲され、その人望と熱意で開墾の道を開いた仲田源蔵。牧之原開墾の歴史を語る上で忘れてはならない人物です。(静岡県茶業試験場蔵より) 
 蓬莱橋
  蓬莱橋(ほうらいばし)は、大井川に架けられた全長897.4m、通行幅2.4mの木造歩道橋です。現在も農道として利用されており、貴重な歴史的土地改良施設として県内外から多数の観光客が訪れています。国内でも数少ない賃取橋(ちんとりばし)として有名で、平成9年12月30日には「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてイギリスのギネス社に認定されました。長い木長生きの橋、全長897.4(やくなし=厄無し」の語呂合わせで縁起のいい橋として人気があります。
 蓬莱橋の由来
明治3年4月13日、静岡藩七十万石の藩主となった徳川亀之助=家達(いえさと)は、藩内の志太・榛原・小笠の三郡を見回りました。そのとき、谷口原の中条金之助景昭の住まいに立ち寄りました。中条景昭は、明治2年、牧之原開墾のため入植した幕臣で、名前を潜蔵と改めていました。徳川家達は、谷口から大井川を越して御請新田へ移り籠に乗って堤防沿いを見廻りました。横井十番出(だしは突堤のこと)のあたりの堤防改修工事を視察した後、しばらく休けいしました。お供をしてきた潜蔵に向かって、「農は里の宝、向こうの山は宝の山、みなで力をあわせ宝の山を切り開けよ」と谷口原を指さし激励しました。その後、谷口原は開墾が進み、島田町の開墾農家の人たちが、橋を架けてという願いを県に提出しました。明治11年12月に許可がおり、翌12年1月下旬には、橋は完成しました。そして、橋に名前についてはいろいろ意見が出ましたが、徳川家達公が谷口原を宝の山と言ったことに因んで「蓬莱橋」にしょうということになり、明治12年1月13日付けで、正式に「蓬莱橋」が誕生しました。蓬莱→宝来の意。
 橋を渡った処にはお地蔵さん、お社がお出迎えでした
橋を引き返すと橋の上から遠く遠州の山々の景色が見える