8月31日(水)、早朝ホテルを出発して、名古屋駅から新幹線で豊橋に向いました。JR豊橋駅から飯田線に
乗り換えて豊川駅に着きました。今日の豊橋地方は、小笠原に近づいてきた台風の影響で、朝から少々
強い雨が降り、歩行に難儀しましたが、参詣客が少ないこともあり、左程、苦は無く散策が出来ました。
歴史が深く、全国数百万人の篤信者を有する寺院の重みを感じながら、境内をゆっくり見学しました。
妙厳寺
豊川稲荷は正式名を「妙嚴寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。 一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は、多くの人が「狐を祀った神社」を想像されると思われますが、当寺院でお祀りしているのは、御鎮守豐川吒枳尼眞天(だきにしんてん)です。豐川吒枳尼眞天は「稲穂を荷い、白い狐に跨っている」ことから、いつしか「豊川稲荷」が通称として広まり、現在に至っています。
 総門: 総門は、当山の開創から214年後の明暦2年(1656)に一度改築されました。 現在の門は三代目で、明治17年(1884)
4月、当山29世黙童禅師に よって上棟改築されたものです。 門扉及び両袖の扉は一千有余年の樹齢を重ねた高さ4.5m、幅1.8m、
厚さ15cmのの一枚板で、欅独特の鱗のような  木目(如輪目)は類い稀な木材として知られてます。 屋根は銅板鱗葺きで、また
諸処に使用されている唐金手彫の金具は、優れた技法を示しています。 頭上に祀られている十六羅漢像は、名匠諏訪ノ和四郎
その他名工の合作といわれています。
  豊川稲荷大本殿は、後鳥羽天皇の子と言われた鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧・寒巌義尹(かんがんぎいん)が感得し、自作の端麗
妙相を備えた通称「豊川稲荷」(豐川吒枳尼眞天(ダキニテン)が祀られています、全国の信者の信仰の中心であり、御祈祷の根本道
場でもあります。当山29世、30世、31世の三代にわたる大本殿新築の大願は明治、大正、昭和の三世代に渡り、昭和5年春に竣工し
落慶大開帳が行われました。建物は総欅造り、妻入二重屋根三方向拝の形をとり間口(19.3m)、高さ(30.6m)、奥行
38.6m)丸柱は直径(24cm)および、直径(90cm)のもの計72本が使われています。内部は内陣、般若殿、施主殿に区画され
内陣には「豐川吒枳尼眞天」が奉祀されています。また、明治時代に至り、有栖川宮家より「豐川閣」の大額が下賜され、大本殿
内部に掲揚されています。当山を「豐川閣」と呼ぶのはこの因縁によるものです。
山門 :天文5年(1536)今川義元公が寄進した建物で、当山の中で最古の建物で、唯一の丸瓦葺造りの屋根の形をしています。
寛政5年(1792)に修理し、さらに昭和29年春、名古屋かなえ講の協賛によって大修理が行われました。
左右の阿吽の仁王像は、昭和41年に篤信者によって寄進されたものです。
 法堂:僧侶が仏教を講義する建物のこと。24年3月完成予定  最祥殿:書院。信者の接待用の建物で、400畳の広間がある。
 豊楽殿:旧本殿の祈祷殿でした。文政7年建立。
 鎮守堂:祭神は白山妙理大権現、守護神として祀られる
 鐘楼堂:昭和12年春、本殿落慶記念に寄進された。  漱水舎: 手水舎のことです。
景雲門 :奥の院参道の中間にあり、安政5年(1858)の創建で、旧奥の院拝殿を昭和5年の大本殿の御開帳に際し、
現在地に移転し、景雲門と名付けられました。彫刻は名匠諏訪ノ和四郎の作で、巧麗をきわめています。
 文久3年(1863)建立された間口十三間(19.9m)、奥行七間(14.5m)の構造で、その名の如く
参詣の諸人が信仰の心を、分に応じて或いは一燈を、或いは万燈を具現して献じ供養する霊堂です。
 納付堂: 信者が願い事を書いて納めるところ。  奥の院: 春・秋の祭典の行事が行われる霊殿。
大黒堂:土蔵前の大黒天を撫々して広大無辺のご利益を授く 霊狐塚:祈願成就の御礼に信者が狐像を奉納するようになった
妙厳寺庭園
  豊川吒枳尼眞天