神護寺
 神護寺(じんごじ)は和気清麻呂が建てた2つの寺が合併して誕生した寺と言われています。 その後、荒廃した神護寺の再興に尽力したのが、源頼朝に平家打倒を教唆した僧文覚。文覚は神護寺再建に懸命に尽力し、源頼朝もそれを援助した。神護寺の楼門は元和9年(1623)の建立。 両脇には持国天・増長天が安置されている。鎌倉時代にはこの場所に中門があって、建久3年(1192)に運慶が造立した二天王と八大夜叉像が安置されていたという。
金堂 - 昭和9年(1934)に篤信家山口玄洞の寄進により再建。楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂である。須弥壇中央の厨子に本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光菩薩・月光菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置しています。

多宝塔 - 昭和9年に山口玄洞の寄進により再建。金堂からさらに石段を上った高みに建つ。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置しています。多宝塔に安置される五大虚空蔵菩薩坐像5軀(国宝)は、毎年秋に特別御開帳と祈願法要が行われます。仏像はいずれも一木造で、白・黄・緑・赤・黒の5色に彩色され、手の形や持物が異なります。

龍王堂 - 昭和9年に、篤信家山口玄洞の寄進により再建されました。

鐘楼 - 元和9年(1623)の再建。楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘が掛かる。

明王堂 - 天慶2年(939)に平将門の乱が勃発した時に、朱雀天皇は、嵯峨天皇の勅命により弘法大師空海が刻して神護寺の護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、遍照寺の寛朝大僧正に命じて下総国公津の堂宇に捧持させ、21日間、朝敵調伏の護摩を修せしめた。翌天慶3年(940)、乱の平定後に朱雀天皇は、寛朝が帰京しようとしたが不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原に東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、神護新勝寺の寺名を下賜し勅願寺とした。

五大堂 - 元和9年(1623)に建立されました。金堂へと上る石段の下に建っています。入母屋造の三間堂。

毘沙門堂 - 元和9年(1623)の建立。五大堂の南に建っています。入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていました。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文財)を安置しています。

大師堂 - 毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、こけら葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。内部の厨子に正安4年(1302)作の板彫弘法大師像(重文財)を安置しています。

和気公霊廟 - 和気清麻呂を祀っています。昭和9年(1934)に山口玄洞の寄進により再建されました。

宝蔵 ー 神護寺の寺宝が保管されています
                                                                                       



       





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