義仲寺
 義仲寺の創建については不詳であるが、木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。戦国時代に荒廃したが、天文22年(1553)頃、近江守護の六角義賢によって再興された。また、この頃は石山寺の配下となっていた。江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684 - 1688)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692)には寺名を義仲寺に改めている。
俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人びとを愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。芭蕉は大坂で亡くなったが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺志により元禄7年(1694)10月、義仲の墓の横に葬られた。芭蕉の門人である島崎又玄(ゆうげん)の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名である。

 元禄10年(1697)、園城寺は源義仲が禅宗の信徒であったことから、義仲寺の住持に禅僧の泰宗を任じたが、園城寺内で、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)の園城寺がその配下の寺院の住持に禅僧を任じるのはおかしいとの話が上がり、泰宗は住持から外された。しかし、留守居としてそのまま管理が委ねられた。以降、当寺は蕉門俳諧の人々によって護持されていくようになった。
その後またも当寺は荒廃してしまう。また、宝暦年間(1751 - 1764)には本寺の光浄院が困窮したために、本寺が園城寺子院・法明院に変更されたりしている。そんな中の明和6年(1769)京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけてようやく中興した。後に本寺も光浄院に戻されている。寛政5年(1793)には盛大に芭蕉百回忌が行われた。
明治29年(1896)に琵琶湖大水害で被害を受けるが、明治33年(1900)以降に復興する。また、この頃には本寺が園城寺の三門跡の一つである円満院となっている。
 昭和期、太平洋戦争後に再び荒廃壊滅の危機に瀕したが、一個人の篤志家による寄進によって昭和40年(1965)、円満院から境内地を買い取り、ついで独立・再興し、単立の寺院となった。
保田興重郎(やすだよじゅうろう):義仲寺が廃寺にされる窮地を救った人物 膳所藩士菅沼曲翠のことで松尾芭蕉の門下生

       




                                                                                                                                                                 * 写真は一部、web上から拝用させていただいています