草津宿と本陣
 草津宿と本陣
旧東海道草津宿の本陣であつて、木造瓦葺平家建、街道に面して建てられている。主要部は享保3年膳所藩瓦の浜御殿を移築したもので、天保10年その上段向を建替えた。向って左に表門、玄関、上段の間、家臣用の部屋等の客用施設を右に居間を設けてその間に土間をとり、台所口を開いている。その他土蔵、御除門等も存し、表間を店舗に改造しているような模様換も行われているが、よく旧規模をとどめ、交通史の遺跡として極めて貴重である。草津宿は、近世、東海道五十三次のうち52番目の宿駅で、五街道のなかでも重要な街道と位置づけられた東海道と中山道の合流・分岐点に当たり、わが国近世交通の要衝でした。天保14年(1843)の記録によれば、家数586軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒を数え、江戸と京を往来する旅人や物資で宿場は賑わいを極めていました。草津宿の本陣としては、江戸時代を通じて田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二つが設けられ、公家・大名をはじめ貴人の休息・宿泊施設として機能した。このうち七左衛門本陣は、草津川に隣接する宿場・一町目西側に位置し、幕末の絵図等によれば、表間口14間半(約26m)、奥行き62間(約111m)、屋敷地1305坪、建坪468坪で、建物は街道から向かって左側に休泊者のための座敷棟、右側に田中家の住居棟、敷地奥には厩、土蔵が配され、周囲は西側は高塀、北側及び東側には堀・藪を配するものでした。明治3年(1870)に宿駅制度が廃止され本陣としての機能は失い、郡役所や公民館として利用されるようになりました。
これより宿場町散歩
このように住宅や植物公園が川の中に造られました。琵琶湖に注ぐ川にはいくつかの天井川があります。
立木神社
立木神社
  立木神社は創建が古く、奈良春日大社とは兄弟の関係と言われています。宝亀8年(777)大旱魃になった際に光仁天皇が中臣諸魚へ勅し当社に雨乞いの祈願をさせたところ見事に大雨が降ってきた。光仁天皇はそのお礼として当社に新たな社殿を造営したが、この際に正一位の神階を授けたという説が残っている。さらに「立木大明神」の勅額を賜わった。また、延暦5年(786)に桓武天皇より正一位の神階を授かったともいわれ、弘治3年(1557)に正一位を授かったとの記録も当社にあり、神号はそれ以降に始まったとの説もあります。 延暦20年(801)征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討に出陣した際当社に立ち寄り、道中安全と厄除開運を祈願し、大般若経一部を寄進しています。
室町時代の長享元年(1487)、室町幕府将軍足利義尚が近江守護六角高頼を征伐するために栗太郡鈎に陣を敷いた(鈎の陣)時、当社に武運長久を祈願して四脚門(現・神門)を寄進している。江戸時代の正保2年(1645)には膳所藩主石川忠総が社領23石を寄進しています。
当社は草津宿にあり、東海道と中山道の分岐点でもあるために大変な賑わいを見せました。また参勤交代のおりに諸国の大名が草津宿を通過する際には必ず当社に道中安全を祈願し、結果、事故災難はなかったと伝えられています。