郡山城
郡山城
  郡山城跡は天正8年(1580)筒井順慶が、当時この付近一帯に館を築きそれぞれ割譲していた豪族たちを平定、織田信長の力を背景に大和一国の安定勢力として築城した処である。その後、豊臣大納言秀長が兄、秀吉の命を受け、俗にいう百万石の禄高をもって入城し、今日に残る本格的な城郭の構築を開始すると共に、城下町の建設にも力を尽くし次いで、増田長盛の代に至って、その総縄張りが完成した。それ以降、水野、松平、本多氏等德川譜代の功臣・名家の居城となったが、享保9年(1714) 柳沢吉保の嫡男吉里が15万余石を以て、この城に入り、以後、明治維新まで続いた。柳沢氏時代には外堀の総延長は、50町13間、東西719間、南北570間の広さであった。野面積みの城塁には仏石に類するものが、すこぶる多く使用されており、城郭史上特異な存在と言われています。
 柳沢神社
 御祭神 柳沢美濃守吉保。享保9年、柳沢吉里が国替で甲府から15万石を以て、郡山城に入城。以来、6代140余年間、明治維新まで郡山の礎を築き繁栄へ導いた。その功績を称える意と大和郡山の繁栄と安寧、幸福を祈願して創建された。

 藩祖柳沢吉保は、元禄元年、第5代将軍綱吉の側用人となり、鋭敏敏捷にして学を好み、将軍綱吉の意をよく捉えて、出世し、元禄7年川越藩主となり、はじめて城持大名となり、大老格となった。宝永元年には甲府15万石を与えられた。民の病苦を問い、仁政を施して、細井広沢、荻生徂徠など多くの名士を其門に集め幕政の安泰に尽力した。
天主台跡からは奈良盆地、東大寺、三笠山が一望できる
 
郡山城二の丸跡に立地する奈良県立郡山高等学校