法隆寺
法隆寺
 大和平野を広々と見渡す斑鳩の里に、聖徳太子が斑鳩宮を造営されたのは推古天皇9年(601)のことです。ほどなく、太子はここに、亡き用明天皇のための寺の造立を発願され推古10年(607)年ごろ完成したのが、法隆寺です。太子は中国の優れた政治や文化、とりわけ仏教を積極的に取入れて四天王寺、中宮寺、広隆寺などの寺々を建立し冠位十二階憲法十七条の制定、遣隋使の派遣などによって国の発展を計られましたが、惜しくも推古30年(622)49歳のとき人々の悲嘆のうちに薨去しました。
 その後、太子の志は、太子の遺訓を守る長子の山背大兄王が受け継ぎましたが、曽我入鹿の軍勢により攻め込まれ、大兄王をはじめ太子の一族は滅亡しました。法隆寺はその後も太子を慕う人々によって護持されてきました。「日本書紀」によると天智9年(670)”一屋余すことなく焼失した”と記載されています。しかし、まもなく再建進められ奈良時代の初頭までには飛鳥時代の様式で中心伽藍が復興され、やがて旧にも増した寺観が整えられたのが世界最古の木造建築群として知られる現在の西院伽藍です。一方、斑鳩宮は荒廃にまかせるままになっているのを嘆かれた奈良時代の高僧行信僧都が天平11年(739)ごろ、太子の菩提を願って宮跡に建立したのが夢殿で、これを中心にした建造物群が東院伽藍です。 
西院伽藍
 
  金堂内陣の須弥壇には峻厳ななかに穏やかな微笑みをたたえた釈迦三尊像(鞍作止利 くらつくりのとり)作の精緻な光背の裏面には、推古30年(622)に聖徳太子が発病され、そして薨去されるにあたり、その病平癒と成道を願って造られた等身大の太子像が、その翌年止利仏師によって完成したことが刻まれています。つまり、この像は釈迦の像でありながら、聖徳太子その人の像でもあり、法隆寺が太子菩提の寺院でもあることを物語っています
東院伽藍
中宮寺
 中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の皇后の御願いによって西の法隆寺とは対照的な位置に創建された尼寺です。本堂は昭和45年5月に落慶した耐震耐火の設計で出来ています。御本尊は国宝の「菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)」で、エジプトの「スフィンクス」レオナルド・ダ・ビンチの「モナリサ」と並んで、世界三大微笑像と呼ばれています。半跏の姿勢で左足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は人間の救いを如何にせんと思惟されるかの姿に相応しい清純な気品を湛えています。また、当寺は1300余年の永きに亘り、大和門跡随一の尼寺として伝統の法燈を続けています。


       


               * 写真は一部、web上から拝用させていただいています