国立京都国際会館
訪れた当日は、生憎、閉館中で館内の見学はならなかった。事務所で頂いた資料で概要を知ったので、以下に記す。

 国立京都国際会館(Kyoto International Conference Center、略称:ICC Kyoto)は、日本の国際会議施設の一つ。京都府京都市左京区岩倉に所在し、宝が池公園に隣接する。運営は、公益財団法人国立京都国際会館。日本で最初の国立の会議施設であり、ここで「地球温暖化防止京都会議」が開催され、京都議定書が採択された。 また、国連軍縮会議、国際電気通信連合全権委員会議、国際捕鯨委員会科学委員会及び総会、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)締約国会議、ユネスコ世界遺産委員会、アジア欧州会合 (ASEM) など、重要な国際会議が行われている。

 設計上の特徴は、日本古来の合掌造り様式と現代的建築様式の融合。施設の一部(宴会場の一つ)は昭和48年(1973)の増設。付属施設として池と木々からなる日本庭園があり、現代的建造物との対比を演出するとともに、隣接する宝が池への導線上に位置づけられている。

京都府立植物園

京都府立植物園
日本で最初の公立植物園として大正13年(1924)1月1日に開園した。戦後、当初計画された京都御苑の代替地として、占領軍住宅が建設されることとなった。1946年10月に全面接収され、この間、25,000本以上あった樹木は6,000本に減った1957年12月に返還され、占領軍の住宅の撤去は1958年12月に完了した。1961年4月に再開園し、新設のドーム型温室前で竣工開園式が行われた。
1992年3月に当時日本最大級となる観覧温室が竣工した。 しかし翌年以降は入園者が減少、
2002年(平成14年)は入園者が60万人を割った。しかし採算に合う・合わない関係なく、あらゆる植物を後世に伝え残すというコンセプトを重視し、当時の職員によるガイド案内、広報物掲載などの様々な努力によって、2010年には77万人を超えるほど入園者が増加した
園内には観覧温室のほか、正門花壇、はす池、ばら園など20ほどのエリアがあり、面積240,000㎡ (24ヘクタール) の広大な敷地にテーマ別に約12000種類、約12万本の植物が植えられている。日本の四季の花が見られる花壇や洋風庭園、熱帯植物を集めた温室がある。北半分は半木(なからぎ)の森と呼ばれる自然に近い森を利用した生態植物園などがある。
 小野蘭山(らんざん 1729- 1810)は、江戸時代の大本草学者。本姓は佐伯。京都上京区で佐伯職茂(従四位伊勢守)の次男として生まれる。13歳の時から父の師であった松岡恕庵に本草学を学ぶ。非常に記憶力がよく一度聞いたことは一生忘れなかったという。ところが5年と経たず恕庵が死去、以後は独学で本草学を学ぶことになる。そんな中、蘭山は一つの壁に突き当たった。実はそれまでの本草学は中国から伝わった李時珍の著書『本草綱目』を元に作られたもので日本固有の動植物、鉱物などに適した形をもっていなかった。その事から、蘭山は積極的に山や森に分け入り日本の本草学作りを志した。25歳で京都丸太町に私塾・衆芳軒を開塾、多くの門人を教えた。蘭山が研究した本草学は広く知られる事になり日本中から生徒が集まり千人を越える人間が巣立って行ったと言われている。ただ、塾を去って郷里に戻った後も本草学を続けた者は10人に1人もいないという。しかし、郷里に戻った門人と蘭山との書簡が数多く残り、手紙で教えを請い続けた弟子もいたようだ。天明8年(1788)、蘭山60歳の時、天明の大火が発生。私塾・衆芳軒も大火に焼かれ蘭山も門人の吉田立仙の家に避難。この大火で門弟達は散り散りとなり、しばらくの暇ができた蘭山は自身の研究をまとめる著作の執筆をして過ごした。寛政11年(1799)71歳の時、幕命により江戸に移り医学校教授方となる。享和元年(1801)ー 文化2年(1805)にかけて、諸国をめぐり植物の採集。享和3年(1803)75歳の時に研究をまとめた著書『本草綱目啓蒙』を脱稿。本草1882種を書き表す大著で3年にかけて全48巻が刊行され、日本最高の本草学書になった(この著書はのちにシーボルトが手に入れ、蘭山を「日本のリンネ」と賞賛している)。文化7年(1810)1月27日死去。享年82。墓所は練馬区の迎接院。