瀬田唐橋
瀬田唐橋
  瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」といわれました。唐橋を舞台として幾多の戦が繰り広げられました。「壬申の乱」では大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。「承久の乱」では後鳥羽上皇の京軍と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。観応元年(1351)の観応の擾乱では足利直義軍と近江守護軍と交戦しました。安土桃山時代に入ると織田信長は橋の重要性を認識し、架橋奉行を置いて、より堅固で華美にして、初めて銅製の擬宝珠が欄干の親柱に付けています。明智光秀が本能寺で信長を倒すと新しく陣営にした安土城を守るために橋を焼いたが、豊臣秀吉が天下を取るとまた、橋は架けられました。江戸時代に入ると幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋を架けることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課した。以降、瀬田の唐橋は寛永7(1795)から明治27(1894)までの100年間で、18回の架け換えを歴代藩主、明治新政府によって改修架橋をされてきています。現在の橋は、昭和54年(1979)に現在の橋が竣工されたものです。

【瀬田唐橋エピソード】
    武士(もののふ)の矢橋のわたり近くとも急がば廻れ瀬田の長橋  室町時代の連歌師 宗長(醒睡笑)がと詠んで知られていますが、これは江戸から京都へ上るには草津の矢橋(やばせ)の港から大津の石場への航路が最も早いとされていたが、反面、天候が変わりやすく、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これが「急がば回れ」の格言になったと言われています。

瀬田唐橋の袂で栄えた商家宅   瀬田唐橋の傍らに建てられた地蔵菩薩座像 
(写真左) 俵藤太の15代目の子孫、蒲生高秀(蒲生郡小御門城主)が災害や戦さで亡くなった方々の供養のために雲住寺を建立しました。雲住寺山門の軒丸瓦には、のちに膳所藩主となった本多家の家紋が入っています。
(写真右) 永享12年(1440)創建された俵藤太(藤原秀郷)を祀る竜王宮秀郷社