実相院 ・ 岩倉具視 隠棲旧宅跡

 実相院
  実相院は鎌倉時代の寛喜元年(1229)、静基僧正により開基されました。当初は紫野にありましたが、応仁の乱のとき被災を逃れるため文明6年(1474)、園城寺の別院・大雲寺に隣接する現在地に移転しました。しかし室町時代末期までには多くの堂舎が戦火で焼失しました。江戸時代初期に足利義昭の孫、義尊(ぎそん)が実相院門主として入寺しました。義尊は古典、学問に精通し、後陽成天皇の信任を受け、失われた古文書、古記録を熱心に書写したことにより、結果、重要なものが多く残されました。義尊が天皇に寵愛を受けたことで、弟・常尊や従兄弟・道晃親王たちも宮廷生活において、その文化的地位が向上し、朝廷が有する寺院の門主となるなど義尊を取り巻く基礎は一層確かなものとなっていきました。こういった関係で実相院は皇室との関係が深く、また第三代将軍徳川家光の援助を受け、以後当院の代々の住職は皇室と繋がりのある人物が務めました。本堂は東山天皇の中宮、承秋門院の女院御所を移築したもので、四脚門・車寄せも御所より移築されたものである。幕末には岩倉具視も一時ここに住んでおり、当時の密談の記録などが残されています。

 【 旧岩倉邸 】
岩倉具視
    岩倉具視は文政8年(1825)、公家・堀河康親(やすちか)の次男として生まれ、13歳で岩倉具慶(ともやす)の養子になり、安政元年(1854)、孝明天皇の侍従となります。朝廷内において発言力を増す中、公武合体派として、孝明天皇の権威を復興するため、天皇の妹・和宮と徳川家茂の婚姻政策を成功させました。しかし、このことが尊皇攘夷派から佐幕派とみなされ、命を狙われるようになりました。孝明天皇はこれに配慮し、文久2年(1862)に蟄居・謹慎を命じました。この旧宅に具視が暮らしたのは、元治元年から慶応3年(1867)11月までの約3年間です。この間、何んとか復帰できないか模索し、有力公家に対して意見書を書き続けました。また、彼のもとには当時、中岡慎太郎や坂本龍馬らが訪れ、特に薩摩藩と親密になり、大久保利通との接触を深めました。具視は幽棲中も、討幕派の志士たちと交流を続け、日本の将来のためにある計画を練っていました。やがて慶応3年(1867)、洛中に戻ることが許され、12月9日、ついに王政復古宣言しての大号令を掲げました。これからは朝廷が新政府を作り、明治という新しい日本を築くことを宣言したのです。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣などの要職に就任した具視は、明治4年(1871)には特命全権大使として「岩倉使節団」を伴い、欧米各国を視察。新政府の中核として活躍しました。その他にも多大な功績を残しており、「鉄道の敷設」や京都の三大祭に数えられる葵祭を13年ぶりに復活させたほか、京都御所や二条城を整備して一般公開することや、御所に迎賓館を作って外国人を迎えることにも尽力しました。明治維新で東京に都が移され、すっかり気落ちしていた京都の町や民衆を盛り上げるために、大いに貢献した人物でもあります。