修学院離宮
 修学院離宮 

修学院離宮は、桂離宮に遅れること30余年、明暦元年から2年(165556)にかけて後水尾上皇によって造営工事が起こされ、万治2年(1659)頃に完成した山荘です。上・中・下離宮(御茶屋)から成り、上離宮背後の山、借景となる山林、そして3つの離宮を連絡する松並木の道と両側に広がる田畑とで構成されています。幕府との間に緊張がつづいた時代であっただけに、これほどの大規模な山荘を造営したことは一つの驚異でもありました。総面積は54.5m2を超える雄大な離宮であります。明治期宮内省の所管となるまでは離宮を囲む垣根も全周にはなく、自然に対して開放された山荘でした。昭和39年(1964)上・中・下(かみなかしも)各離宮の間に展開する8m2に及ぶ田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保持の備えにも万全を期して今日に至っています。

【 下離宮 】
 寿月観 後水尾上皇行幸時の御座所となった建物。享保年間に失われたが、文政7年(1824)に再建された。文政の再建は、第11代将軍・徳川家斉が光格上皇のために離宮の改修を行った際のものである。建物は、入母屋造りと寄棟造りの併用で、屋根は杮柿葺(こけらぶき)を採用している。襖絵は、当時、宮家から評判を得ていた絵師・岸駒(がんく)が「虎渓三笑」画を描いている。扁額の筆は、後水尾上皇自らが書いたもので、後嵯峨上皇と並び称されると評判通りの達筆です。
【 中離宮 】
 

中離宮(中御茶屋)の楽只軒と客殿

楽只軒(らくしけん) - 瓦葺(かわらぶき)、杮庇(こけらひさし)の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設け、部屋は「一の間「二の間」「三の間」の3部屋を有している。一の間の壁貼付の絵は狩野探信の「吉野山桜図」である。二の間の壁貼付絵は作者未詳の「竜田川紅葉図」である。一の間・二の間境の長押上の「楽只軒」の額は後水尾上皇の筆になる。

  客殿 -東福門院の女院御所の対面所を移築したもので楽只軒の南東に接して建てられている。建物は入母屋造(いりもやつくり)、杮葺(こけらぶき)である。部屋は楽只軒同様3部屋を有し、西側の杉戸には祇園祭放下鉾と岩戸山を描き、南側の畳縁の杉戸には大鯉と鮒を描き、「この魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えた」という。12畳ある「一の間」には、床間には霞のたなびく様に似る「霞棚」と称される幅1間半の棚を設け、5枚の欅板棚を、高さを違えて設置している。この棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一と云われている。つぶさに見ると目を見張る作品がいろいろ仕込まれていて興味深い。

 
 これよりは、中離宮より上離宮へ向かう道すがらの情景です
【 上離宮 】 
 上離宮には、この離宮で最も高い位置にある御茶屋“隣雲亭”があり、眼下には浴龍池やその先の洛北の山々の風景、左手には京都市街を一望できます。絶景です。そして浴龍池の周りを周遊すると江戸時代後期の光格天皇の時代に建てられた石橋“千歳橋”、そして浴龍池を一望できるもう一つの茶室“窮邃亭”があります。
 
隣雲亭からは、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景を満喫できる 
1986年5月、英国チャールズ皇太子・ダイアナ妃が修学院離宮を訪れました。
そのとき、天皇陛下と美智子妃殿下が歓談した所が、浴龍池に接したこの見晴らし所です。
 後水尾上皇が修学院離宮をこの地に建設したいと願った心の内は、
この地が比叡山に護られているからだったと云われています。
振り返って、修学院離宮の方向を眺めて見ると・・・・納得できました。