曼殊院 
曼殊院  (まんしゅいん)
 延暦年間(728~806)、宗祖伝教大師最澄が国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりです。その後、天暦年間(947~957)是算(ぜさん)国師のとき北野天満宮が造営されると是算国師が菅原家の出生であったことから、初代別当職に補され、以後明治維新まで900年間曼殊院は北野別当職を歴任している。天仁年間には北野天満宮管理のため北山に別院を建立している。その後、明暦二年(1656)のとき、後陽成天皇の甥で、後水尾天皇の従兄弟にあたる良尚法親王が入寺され、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の
曼殊院です。曼殊院造営については、桂離宮を完成させたといわれる兄智忠親王のアドバイスを受けて建設され、桂離宮同様当時ヨーロッパで大流行した黄金分割が採用されている。曼殊院の瀟洒で、軽快な大書院・小書院は桂離宮の新御殿や西本願寺の黒書院と並んで数奇屋風書院の代表的な遺構とされています。
曼殊院は皇族・貴族の子弟が代々住持となる門跡寺院と呼ばれる別格寺院であり、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられています。そして、紅葉の名所としても知られています。国宝の黄不動画像、曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有しています。また書院の釘隠しや引き手、欄間などが桂離宮と共通した意匠が見られ「小さな桂離宮」といわれています。書院庭園は武家の庭とは違い、また寺院の庭とも違う、いわゆる公家好みの庭となっています。司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで
公家文化は安土桃山期に育成され、江戸初期に開花した。桂離宮と曼殊院は桃山期の美意識の成熟と終焉を示していると書いています。曼殊院には過去後水尾上皇や霊元天皇、近年では皇太子殿下、秋篠宮両殿下 、常陸宮両殿下、平成24年には天皇皇后両陛下が行幸されております。