六波羅蜜寺 ・ 六道珍皇子寺
【 六波羅蜜寺 】
六波羅蜜寺
 六波羅蜜寺は、民間における浄土教の先駆者と称えられている空也上人が開山した寺院です。空也上人は、平安時代中期の僧侶で特定の宗派に属さない超宗派的な僧侶でした。951年、空也上人は口称念仏を唱えて、のちに六波羅蜜寺となる御寺を京都に開きました。疫病が蔓延している当時の京都で、観音様を荷車で引きながら念仏を唱え、病の人に茶を振る舞って救ったという逸話があります。963年には、名僧を600人ほどを集めて金字大般若経を読み、京都の街に広がる病魔を鎮めたと云われています。これらの出来事が起源となり、六波羅蜜寺は現在までその姿を残す寺として、弟子の代に変わっても寺は栄えました。平安時代の末期には、寺の周辺一帯が六波羅殿と呼ばる平家の邸宅として栄えていました。平清盛や平重盛といった平家一門の屋敷が5,200余り並んでいたと云われています。その後、平家の没落の際に、戦火によって本堂以外の建物が焼失。時代や将軍が変わっていく中でも、再建復興が進められ、火災が起きるたびに修復されました。重要文化財にも選ばれている本堂は、1363年に修復されたものを1969年に解体修理したものです。

【 六道珍皇寺 】
六道珍皇寺  (ろくどうちんこうじ
  六道珍皇寺は、承和3年(836)に山代淡海が創建したとある。もと真言宗の寺院で、平安・鎌倉期には東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有していた。藤原道長の「御堂関白記」には珍皇寺を指すと看做される珎光寺の記述が見られる。鎌倉末期は幾多の兵乱にまきこまれ、多くの堂宇が焼失し、荒廃することとなり、南北朝期の貞治3年(1364)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)により臨済宗に改宗され再興が成っった。明治に入り一時建仁寺に併合されたが、明治43年(1910)に独立して、現在に至っている。本堂には薬師三尊像が安置されているほか、境内には閻魔堂、地蔵堂、鐘楼等がある。 
小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。
 
  小野篁(802年〜852年)は参議小野岑守の子。嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、何ものにも拘束されず、思いどおりに振る舞う不羈(ふき)奔放な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともある。なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。
かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には篁が、閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがえる。こうした篁の冥官説は、室町時代にはほぼ定着した。今なお、本堂背後の庭内には、篁が冥土へ通うのに使ったという井戸があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った
「黄泉がえりの井戸」が発見された。そばには篁の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある
  

百人一首   11番 参議篁

      わたの原 八十島かけて 漕ぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟     


「六道」とは、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅道(しゅら)・人道・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生する(生死を繰返しながら流転する)という。 この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境(接点)の辻が、古来より当寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。このような伝説が生じたのは、当寺が平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り」をされたことより、ここがいわば「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったことと、小野篁が夜毎(よごと)冥府通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたことによるものと云われている。この「六道の辻」の名称は、古くは「古事談」にも見れることから、この地が中世以来より「冥土への通路」として世に知られていたことがうかがえる。 (六道珍皇子寺HPより)