高台寺 ・ 八坂五重塔
【 高台寺 】
高台寺
 高台寺は北政所が豊臣秀吉の菩提を弔うため、徳川家康の財政支援を得て、慶長11年(1606)に建立したお寺で、正式名称は高台寿聖禅寺です。開山は曹洞宗の弓箴善彊でしたが、寛永元年(1624)の中興開山で臨済宗建仁寺の三江紹益を招いたのを機に臨済宗のお寺となりました。秀吉が最期を迎えた伏見城から方丈、茶室、化粧御殿が移築され、建立当時は豪華絢爛で壮観な寺院だったと伝えられています。その後、火災に何度か見舞われ仏殿や方丈は消失してしまいましたが、秀吉や北政所を祀る霊屋(おたまや)、三江紹益を祀る開山堂や、千利休が設計した傘亭(からかさてい)、時雨亭(しぐれてい)の茶屋などは当時のまま残されており、重要文化財に指定されています。  (高台寺HPより)。
傘亭  (からかさてい)
高台寺東側の山上に位置する桃山時代建築の茶室(重要文化財建造物)。伏見城の遺構。室内には天井板がなく、丸太と竹で扇垂木状に組まれた化粧屋根裏の骨組みを見ることができる。唐傘を広げたように見えることから傘亭と呼ばれている。入口は「舟入口」の名のとおり、かつての伏見城では池に面した水辺に建っていたと推測される。高台寺作庭の際並んで建つ時雨亭と土間廊下でつながれた。 
 時雨亭   (しぐれてい)
傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下でつながれている。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。傘亭同様伏見城からの移築とされ、これも千利休好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる。
【 高台寺党・御陵衛士 】
 高台寺党御陵衛士
 御陵衛士は常陸志筑出身の
伊東甲子太郎を盟主として結束した総勢10数名の志士集団で新撰組に組していたが、隊長近藤勇・副隊長土方歳三が主導する新選組の暴力的側面に志が異なることを痛感した。伊東らは離反して、同志たちと壬生の屯所を出て高台寺の塔頭・月真院の本堂と庫裏を宿直するようになりました。その後、懇意にしていた泉涌寺塔頭・戒光寺の湛然住職の仲介で朝廷から孝明天皇の御陵衛士を拝命することになった。次第に頭角を現してきた伊東甲子太郎達の動向に危機感を抱いた新撰組は、伊東ら4名を油小路で襲い殺害した。カリスマ的リーダーを失った御陵衛士たちは、その後、政治活動をすることなく雲散していった。
【  霊山神社  】
 霊山観音(りょうぜんかんのん)
霊山観音は、京都市東山区にある観音像で、第二次世界大戦の戦没者および戦争の犠牲者を追悼するため、1955年、帝産グループ創設者、石川博資によって建立された。高さ24m、重さは約500t、鉄骨コンクリート造。運営は宗教法人霊山観音教会が行っている。観音像の下には内陣があり本尊の十一面観音が祀られている。
霊山神社
 慶応4年5月(1868)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりである。祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られているほか、誕生日であり命日でもある11月15日には、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われる(誕生日・命日は本来は旧暦11月15日だが、祭は新暦11月15日に行われる)。龍馬のほかに、木戸孝允、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞、高杉晋作、所郁太郎、宮部鼎蔵、田岡俊三郎ら幕末勤王の志士1,356柱、明治以降の日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦などの戦死者を合わせ約73、000柱が祭神として祀られている 
 
 桂小五郎・幾松 墓所
 桂小五郎は維新三傑の一人であり、容姿端麗にして神道無念流の達人でもある。吉田松陰の門下生で理性もあるい、流血に縁遠く、生涯人を斬ったことがないといわれ、この点は、北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。勤皇芸妓の第一人者三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎 28歳幾松 18歳で、相思相愛の仲となり、激動の時代の中で苦楽をを共にし、そして結ばれた。勤皇の志士云われる志士たちの最後は多くが悲劇で終わっているが、明治10年(1877)5月、45歳で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も新政府を主導して活躍し、陽の当たる道を歩んだ幸運者と云える。幾松とても同じで維新の大業成るや正二位公爵・木戸孝允の妻となり、従四位を賜り、霊山に勅碑を建てられる栄誉を得たことは誇るべき人生であったと言えるでしょう。
【 翠紅楼跡 】
【 法観寺 】  ・・八坂の塔
【 八坂の五重塔 】 法観寺 ・・八坂の塔
 京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。伝承によれば五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。聖徳太子創建の伝承は信憑性に疑いがあるものの、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。境内から出土する瓦の様式から、創建は7世紀にさかのぼるとみられる。現存する五重塔は15世紀の再建であるが、創建時の塔跡に建てられており、古代寺院に特有の地下式の心礎(心柱の礎石)が残っている。寺号は当初は八坂寺と称された。現在の五重塔は永享8年(1436年)の焼失後、同12年(1440年)に足利義教の援助により再建されたものである。戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという