大谷廟 ・ 大雲院
【 大谷廟 】
 親鸞聖人御廟
 大谷祖廟は真宗本廟(東本願寺)の飛地境内であり、真宗門徒が宗祖と仰ぐ親鸞聖人(1173-1262)の御廟です。
大谷祖廟は親鸞聖人の死後、聖人を追慕して、その教えに共鳴した同朋たちによって建立され、崇敬護持されてきました。「阿弥陀経」に説かれている「
俱会一処(ぐえいっしょ)- 俱に一処に会する」の教えに因んで御廟には親鸞聖人をはじめ、本願寺の歴代、そして真宗の流れを汲む全国各地の寺院、門徒の遺骨が納められています。
南北五間、東西三間半の御影石の重畳式である長方形の墳墓であり、その上に聖人遺愛の虎石が置かれています。唐門・透塀で仕切られた内部の金属灯篭と外部の石製灯篭が各一対ずつ配置されています。正面の桧皮葺きの唐門および南十間、北九間に亘る菱格子をはじめ透塀の各所には、華美な彫刻が施された装飾品になっています。
【 長楽寺 】 
 長楽寺
 長楽寺は、延暦24年(805)に桓武天皇の勅命によって伝教大師・最澄を開基として創建されました。当初は天台宗の寺院でしたが国阿(こくあ)上人の室町時代初期に時宗に改宗しました。本尊に安産・子宝の信仰もある准胝(じゅんてい)観音像を祀り、洛陽三十三観音霊場の第七番札所でもあります。平安時代末期に成立した説話集『今昔物語集』には絵師・巨勢広高(こせのひろたか)がこちらの「長楽寺」で地獄変相の壁画を描いたことが明記されています。古くは祇園や清水と並んで花の名所と謳われ、多くの文人や画家が訪れた場所でもあります。境内墓地に幕末の歴史家・頼山陽の墓がある。


 頼 山陽(らい さんよう)
  頼山陽は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、当時の日本一のベストセラーとなりました。詩吟・
剣舞で名高い川中島の戦いを描いた「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる漢詩の作者としても有名です。
【吉水弁財天堂】
 吉水弁財天堂 (よしみず)
「円山弁財天」ともいわれています。鎌倉時代に慈円(慈鎮)が安養寺の鎮守として勧請したといわれ、
現在は、安養寺の境外仏堂となっています。弁財天(秘仏)が祀られており、60年に1度だけ開扉されるそうです。
慈円は「愚管抄」の作者で、円山公園の「円」は慈円の円だそうですよ。霊泉が湧き、よい水であることから
「吉水」とよばれ、法然も閼伽の水として使っていたとのことです。
【 大雲院 】
 大雲院
 織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、烏丸二条に創建したのが始まりです。後に寺町四条に移転しました。
天明の大火で伽藍が擁しましたが焼失、明治初期に復興しました。さらに1972年、髙島屋京都店の増床に伴い、現在の東山区に移転しました。通称
「銅閣寺」とも呼ばれています。本堂裏にある塔閣は、大倉財閥創始者・大倉喜八郎が「金閣・銀閣に次ぐ銅閣を」と考えて建てたもので、平安神宮を設計した建築家・伊東忠太の設計による昭和初期の名建築です。高さ36メートルで祇園祭の山鉾をイメージして建てられた塔は「祇園閣」と名付けられ、最上階から京都市街が一望できます。入り口をくぐると、色鮮やかな壁画が現れます。敦煌の壁画の模写が施されており、観無量寿経変相図、釈迦説法図、千手観音図などが描かれています。境内の墓所には、織田信長・信忠親子の墓、また、大泥棒で有名な石川五右衛門の墓もあります。
この界隈は ”京都” を感じる

散歩に、恰好な

優美な地域です。