知恩院
 法然上人とお念仏
  法然上人は平安の末、長承2年(1133)4月7日、美作国久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国(うるま)の長子として生まれ、幼名を
勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏(ひとえ)に先世の宿業なり。もし遺恨をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みづからが解脱を求めよ」
  この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空の名を授けられました。叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世の求道生活に入ります。
この時代は政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から阿弥陀仏のご本願を見いだします。
それは「
南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春、ここに浄土宗が開かれたのです。法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水の草庵、現在の御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実などの貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れ、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。加えて、上人の弟子である住蓮、安楽が後鳥羽上皇の怒りをかう「松虫・鈴虫事件」を起こし、建永2年(1207)、上人は四国流罪となります(建永の法難)。5年後の建暦元年(1211)に帰京できましたが、吉水の草庵は荒れ果てており、今の勢至堂のある場所、大谷の禅房に住むことになりました。翌年、病床についた法然上人は、弟子の源智上人の願いを受け、念仏の肝要をしたためます。それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた『一枚起請文』です。
そして建暦2年(1212)正月25日、80歳で法然上人は入寂されたのです。門弟たちは房の傍らに上人の墳墓をつくりましたが、上人入寂から15年後、叡山の僧兵により墳墓が破却されそうになったため、弟子たちは亡骸を西山粟生野(あおの)に移し、荼毘に付します。その後、文暦元年(1234)、源智上人は、荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、影堂、総門を建て、知恩教院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世と仰ぐようになりました。
知恩院の名は、遺弟たちが上人報恩のために行った知恩講に由来します。
 
 三門
   元和7年(1621)、徳川2代将軍秀忠公の命を受け建立されました。 構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺で、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国最大級の木造の門で、外に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上です。一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書きます。これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門)を意味しています。
上層部(楼上)内部は、仏堂となっており、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれています。また、七不思議の一つである白木の棺があり、三門造営の命を受けた造営奉行、五味(ごみ)金右衛門夫妻の木像が安置されています。
【知恩院 境内図】
 
【 方丈庭園 】
方丈庭園
 方丈庭園は江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられる庭園です。池泉庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景を醸しだしています。 
 
 
【大梵鐘 】