豊国廟
 鳥野辺
 京都市東山区、清水寺南側にひろがる野原一帯の地域は、通称、「鳥野辺」とよばれ、平安中期ごろ
から葬送の地として知られ、『源氏物語』にも葵上が荼毘に付されるようすを記している。
慶長3年、この一帯に豊臣秀吉の廟所が建てられた。その他、ここでの葬送の例は多くあり,
藤原道長もここで荼毘に付されている。鳥部寺(愛宕寺)が営まれ,また少し西に珍皇寺,六波羅蜜寺
などが建立されたのは,鳥辺野が葬送地であったからであると云われている。
近世以前は庶民の墓は墓石がなく、卒塔婆(そとば)を立てたが、近世以降は大谷本廟(西大谷)から
清水寺にかけて墓地が集中し、浄瑠璃で知られたお俊(しゅん)・伝兵衛の墓などもある。
【 豊国廟 】
豊臣家の家紋(桐紋・五七の桐)付きの楼門
豊臣秀吉の廟所がある阿弥陀峰山頂からは、眼下に清水寺の全景を望むことができる。
第2鳥居付近にある豊臣国松と京極龍子の供養塔。 国松は秀頼の子、龍子は、秀吉の側室。
【 新日吉神社 】
 新日吉神宮   (いまひえじんぐう)
  永暦元年(1160)、後白河上皇によって院の御所・法住寺殿の鎮守社として、日吉大社より山王七社を勧請し、現在より南の地に新日吉社として創建される。同時に、新日吉社の別当寺とするために妙法院を比叡山延暦寺の山内から祇園社(八坂神社)の西側に移設している。また、同じく鎮守社として新熊野神社、鎮守寺として蓮華王院(三十三間堂)が建立されている。室町時代以降は応仁の乱などの戦乱によりほとんど廃絶という状態であったが、寛永17年(1640)現在地のやや北東側、廃絶された豊国社と豊国廟の参道上に再建された。あたかもそれらの参道を塞ぐように再建されたため、「江戸幕府が旧豊国社や豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布したが、この再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、であるが、直接に関与したのは妙法院の堯然法親王(後水尾上皇実弟)である。豊国社が廃絶されてからはその御神体は妙法院で密かに祀られていたのであるが、江戸時代の中頃からは新日吉社で祀られていた。しかし、天明5年(1785)にその御神体を祀るために新たに樹下神(十禅師、鴨玉依姫神)を勧請して樹下社(このもとのやしろ、現在は豊国神社と改称)が創設されている。これらのことから新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。このような説が生まれる背景には、秀吉の元姓が「木下」(樹下に通ずる)、また幼名が「日吉丸」(日吉社に通ずる)と符合する点があるからである。明治30年(1897)、豊臣家ゆかりの旧大名家によって豊国廟が再興されることとなり、当社はその参道上にあったために社地を南西の現在地に移すこととなり、移転した。昭和33年(1958)、後白河天皇を増祀したために翌昭和34年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮へと改めている。