泉涌寺 & その支院・塔頭
泉涌寺
 真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれる。寺伝によれば、空海が天長年間(824-34)ここに草庵を結び、法輪寺としたのが起こり。1218年(建保6)月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き泉涌寺と改められた。四条天皇以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓がある。仏殿(重文)は、徳川家綱の再建で、運慶派作と伝える釈迦、弥陀、弥勒の三尊を安置。天井の竜は狩野探幽筆。霊明殿に歴代天皇、皇后、親王の尊牌を奉安。泉涌寺勧縁疏(国宝)などの文化財を所蔵。国内最大の涅槃図がある。洛陽三十三観音霊場20番札所の楊貴妃観音(重文)、1月の成人の日に行われる七福神巡りは有名。建立:1218(建保6)年
 (京都観光NAVIより)






【 悲田院 】
 悲田院  (ひでんいん)
   悲田院とは身寄りのない子供や老人・貧しい人を収容する福祉施設であるが、平安京にはその悲田院が東西の二つあった。しかし、やがて両方とも消滅してしまった。延慶元年(1308年)、無人如導が一条安居院に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺を創建する。そこにかつての福祉施設であった西悲田院の名跡を引き継いで寺院名を悲田院とした。室町時代になると後花園天皇は悲田院を勅願寺とした。この縁によって当寺の歴代の住職は、代々天皇の綸旨を賜わって、御所への紫衣参内が許された。後花園天皇の崩御の際には当寺で葬儀や荼毘が行なわれた。正保2年(1645年)、如周恵公が摂津国高槻藩主永井直清の帰依を受け、悲田院を現在地に移転させる。以後、高槻藩の庇護を受けて栄える。1885年(明治18年)、泉涌寺塔頭寿命院と合併し、現在に至る。寺には快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像や逆手の阿弥陀如来立像があり、また土佐光起・土佐光成父子による土佐派や、橋本関雪の襖絵がある。
【  戒光寺  】
 戒光寺
 戒光寺は泉涌寺塔頭の一つで、身代り丈六(たけろく)さんと呼ばれている。本尊は釈迦如来像。
泉山七福神の第2番、弁財天は金銭を融通するとして商売繁盛の信仰が篤い。1868年、幕末の油小路事件で
新撰組に斬殺された御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4名は
当寺に改葬され盛大な葬儀が執り行われた。
 即成院 】
即成院は泉涌寺塔頭の一つである
那須与一の伝説
  元暦2年(1185)2月、
源義経は四国屋島に陣をしいていた平氏を背後から攻めたて、慌てた平氏は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。夕暮れになったころ、沖から立派に飾った一艘の小舟が近づいて来ました。見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っています。「この扇を弓で射落としてみよ」という挑戦でした。義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。このとき与一は弱冠20歳。「平家物語」では、このくだりをおおよそ次のように書いています。時は2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。舟は揺り上げられ揺り戻されているので、扇は少しも静止していない。沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり的の扇も射やすくなっているではないか。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。子兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。鏑矢は、浦一体に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸ほど離れたところを射切った。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動した。屋島の戦いの後、平氏は壇ノ浦の戦い(3月24日)にも破れ、滅んでいきました。与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(後継ぎ)の地位と領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えられています。また、与一は文治3年(1187)、それまで平氏に味方し行動を共にしていた兄9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていったと伝えられています。与一は京都伏見にて病死し、即成院に埋葬された。