嶺樹院 ・ 称名寺 ・ 聖隣寺
【 嶺樹院 】
嶺樹院 (れいじゅいん) 曹洞宗 大亀山
 嶺樹院は、近江膳所藩主から亀山藩主に転封となった菅沼定芳が母君の菩提を弔うために慶長8年(1603)に建立されました。寺名は母の院号から嶺樹院と命名されました。当寺には中国の能筆家碧眉(へきび)或いは顔輝(がんき)の筆と伝わる「達磨半身図」が寺宝として所有しており、毎年11月に禅宗の祖達磨大師の恩徳に報いるとともに、母の遺徳を偲ぶ法要が営まれる。
【 称名寺 】
【 聖隣寺 】
聖隣寺  (せいりんじ)

  明智光秀が亀山城を築城した際、亀岡市千歳町毘沙門に祀られていた毘沙門天立像を城の鎮守のために城内に移しました。その後、小早川秀秋が城主となったときに、ここ聖隣寺に毘沙門堂を建立して像を安置しました。のちに、羽柴秀吉が信長の四男を養子に貰い受けて養育し、秀吉の備前高松城の水攻めにも「羽柴秀勝」として従軍させています。
羽柴秀勝は天正10年(1582)本能寺の変後の山崎の戦いで、秀吉に従って実父信長の仇を討ち、清洲会議によって明智光秀の旧領丹波亀山を与えられ、丹波亀山城主となりました。天正11年9月15日、大徳寺の信長の葬儀では、秀吉が主導しましたが、喪主を務めています。また、亀山城下の聖隣寺には織田信長の供養塔が残されている。これは、羽柴秀勝が亀山城主となった際、実父信長を弔うために建てたといわれています。天正13年(1585)、豊臣秀吉は関白に任じられます。そして、羽柴秀勝は、この同じ年に死去しています。享年18歳でした。