女人堂
女人堂(にょにんどう)
  その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。現在の女人堂は唯一現存する建物です。
 平成の高野百景                                                                          文・山口文章
  杉木立の中にひっそり佇む女人堂は女人禁制であった頃の霊峰高野山の象徴として、今にその歴史を語たり伝えています。
高野山の女人禁制は明治五年に解かれましたが、それまでは高野七口と呼ばれる七つの入口に遙拝する女性のため参籠所が設けられていました。現存する女人堂は不動坂口のもので、その清楚な佇まいからは篤い信仰を捧げた多くの女性の想いが感じられます。女人堂は電車を利用して参拝する多くの皆様を御堂の向いに安置されているお竹地蔵とともに温かくお迎えしておりますが、女人堂のすぐ前にお祀りされている小杉大明神の御神体である御幣には「女人堂創祖小杉大明神」とあり、小杉大明神が女人堂に深く携わっていたことが分かります。ここに連綿と語り伝えられている女人禁制の数奇な運命を辿った小杉という女性の物語があります。
  文永年間、越後の国の本陣宿・紀伊國屋にそれは器量の良い
小杉という娘がいました。ある日小杉の作で自筆の「今日はここ明日はいずこか行く末の知らぬわが身のおろかなりけり」という歌が書かれた小屏風が出雲崎代官・上松親正の目に留まったことがご縁で、跡継ぎの信房と結婚することになりましたが、これを嫉んだ継母により小杉は不貞の疑いを掛けられます。このことが厳格な父親の逆鱗に触れ、父は小杉を山深い鳩が峰まで連れて行き、許し乞いをする娘の手首を切り落として谷底に突き落としました。しかし、弘法大師のご加護により一命を取り止め熊の夫婦に助けられます。傷は癒えましたが両手を失った小杉は山姥婆のような姿で食べ物を求めて、熊の夫婦とともに畑を荒らすことになります。これを征伐するために出向いた代官の跡継信房は、そこで変わり果てた婚約者小杉と対面し、すぐさま婚礼の式を挙げ、杉松という子供を授かります。
しかし、幸せな生活は長くは続かず、またも継母の策略により信房と離ればなれにされてしまい、不幸にも信州で山賊に襲われ、最愛の子杉松も失います。絶望の淵に立った小杉は杉松の遺髪を納めに高野山に向かいますが、女人禁制のため入山を許されませんでした。小杉はわが子の行く末のために貯めておいたお金で、女性のための参籠所を不動坂口に建て自分と同じく弘法大師を慕って登山してくる女の人にやさしく接待する毎日を過ごします。
 その後、小杉の建てた参籠所は女人堂と呼ばれるようになり、小杉が亡くなった後も信仰篤い女性の心が安らぐ御堂となりました。人々に慕われ、愛され、連綿と語り伝えられてきた聖女小杉の魂は、今日も参拝者を温かく見守ってくれています。
    (高野山通報)
小杉明神社

 その昔、越後の国に本陣宿舎・紀伊國屋があり、そこに小杉という娘さんがおりました。数奇な人生を送られましたが、弘法大師に
救われ、尼僧となって女人禁制の高野山にに登って来られる女人の方々のために不動坂上に最初の女人堂を開かれ、
優しい接待をされていました。この社は、その小杉さんが女人堂の鎮守・小杉明神として祀られている祠です。
お竹地蔵
 お竹さんという人が亡くなった夫のためにお地蔵さまをお祀りしたことからお竹地蔵と呼ばれるようになった。
高野山で一番大きな地蔵尊です。
これより、聖地高野山

5月29日 (土)  
歩数 30,196歩
歩行距離  17.4 Km