千利休屋敷跡 ・ 旧堺燈台
【 今井宗薫屋敷跡 】 
 今井宗薫  (いまいそうくん)
  今井宗薫 (天文21年(1552 - 寛永4年(1627)享年76歳)は、安土桃山時代・江戸時代の人。茶人今井宗久の長男。本名は兼久。茶の湯を父宗久に学び、豊臣秀吉に御伽衆として仕えました。秀吉没後は、徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いで功を上げて、河内・和泉の代官に任じられました。のちに松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫との婚約を図ったため、大名の私婚禁止令違犯の罪に問われて高野山に蟄居しました。大坂冬の陣のとき、関東に通じていると豊臣方から嫌疑を受け、家財を没収されて大阪城に監禁された。織田有楽齋の取りなしで出牢したが、また高野山へ追放されました。翌年の大坂夏の陣には家康方に従ったが、豊臣方による堺の焼討ちで居宅、家財を失い、以後茶の湯から離れました。子孫は旗本となり、幕末に及んだ。
【 武野紹鷗屋敷跡 】 
武野紹鴎 たけの じょうおう、文亀2年(1502 - 弘治元年(1555
   武野紹鷗は、大和に生まれ、のち堺のこの辺りに居を構えました。皮屋の号をもつ堺の豪商の一人です。若い頃、京で三条西実隆(
さねたか)に和歌を、村田珠光(じゅこう)に茶の湯を学び、堺に戻って、津田宗及、今井宗久、千利休らに珠光のわび茶を伝え、影響を与えました。特に利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いており、これによって紹鴎の名声が広く知られることとなりました。また、娘を宗久に嫁し、財産・茶器を譲ったといわれています。茶人・北向道陳らと交友し、南宋寺の開祖・大林宗套だいりんそうとう)の禅を学びました。墓所は南宋寺にある。
【 少林寺 】 
少林寺
  少林寺は1330年に挑源宗悟が開山した。寺号は、開甚大檀越小林上野守の姓をとり「小林寺」としたが、のちに菩提達磨の少林寺にならって「少」の字に改めた。本尊は釈迦牟尼佛、鎮守白蔵主稲荷明神。1906年には禅通寺を合併した。その鎮守である今池弁財天をまつる。かつての寺の境域は、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまで達していたが、寺地の多くを織田信長に没収され次第に衰退していった。しかしその後も、豊臣秀吉が石田三成と小西行長に命じて境内竹木の伐採を禁止するなど、小さな寺ながら名刹の扱いを受けていた。
 
【 伝千利休屋敷跡 】 
【 旧堺燈台 】 
旧堺灯台 は、三重県の旧安乗埼(あのり)灯台、に次ぐ、日本で2番目に古い木造様式灯台で 建築場に現存するものとしては日本最古の灯台である。イギリス人ビグルストーンの設計で明治10年(1877)に完成した。点灯機械はフランスからの輸入品で、当時、総工費約2500 を要したとされており、その大半は堺の商人たちの寄付により賄わられた。約1世紀にわたり堺港に出入りする船の安全を守ってきたが、港の周辺に大規模な臨海工業地帯が進出する等が進出するなど環境が大きく変化し、昭和43年(1968)その役割を終えた。灯台は堺のシンボルであり、堺を代表する文化財の一つである。
 納屋助左衛門   永禄8年(1565年)? - 没年不詳)別称:呂宋(るそん)助左衛門。 戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。『太閤記』によれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た。文禄3年(1594)7月20日、織田信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺、唐傘、香料など珍品を献上し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。慶長3年(1598)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進してルソン島の日本人町へ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう。慶長12年(1607)、スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとも云われている。