その1 歩数  26,774歩  距離 16.4km 
北御堂 (西本願寺津村別院)
   北御堂南御堂は同じ浄土真宗ですが、本願寺派と大谷派の違いです。織田信長によって石山本願寺(後の大坂城)を退去した顕如は、1591年に秀吉から京都に土地を与えられ本願寺を再興しました。ところが、石山退去に関する見解の相違で、教団内部で対立が起こり、1602年に顕如の長男教如に徳川家康が京都に土地を与えて東本願寺を建てました。浄土真宗は西本願寺と東本願寺に分裂したのです。西本願寺は顕如の3男の准如が相続しました。家康が力の強かった浄土真宗を分裂させてその勢力をそいだと考えられます。大阪に建てられた西本願寺の津村別院が北御堂で、東本願寺の難波別院が南御堂です。大阪市民は北御堂を「お北さん」、南御堂を「お南さん」と親しみを込めて呼んでおり、宗派争いとは無縁のようです。浄土真宗には本願寺派、大谷派、仏光寺派など大きな派閥が10派もありますが、それぞれ歴史的な沿革があります。
また、北御堂には、明治2年、明治天皇が大坂行幸の際、休息で立ち寄った。その時、随行の大久保利通らと面談したところで、普段官位のないものとは対面しなかった仕来たりを外した歴史的出来事のあったところです。
南御堂 (東本願寺難波別院)
新町公園界隈
心斎橋・道頓堀界隈
 法善寺
 浄土宗天龍山法善寺は、寛永14年(1637)ときの住職である中誉専念法師が「金毘羅天王墾伝」の故事に基づき、京都宇治から現在の大阪難波の地に移転しました。法善寺の横丁に建立された水掛不動尊は多くの人々の信仰を集め、大阪のパワースポットの一つになっています念仏聖の専念法師は、人々の供養のために千日間にもおよぶ念仏回向を勤めるなど、民衆に寄り添う日暮らしを送りました。大阪ミナミの法善寺一帯の地域が「千日前」と呼ばれるようになったのは、この専念法師が行った「千日念仏回向」に由来します。