その6   
墨染寺
 
 新選組局長 近藤勇遭難の地
 墨染界隈は京に通じる伏見街道、大津に至る大津街道の宿場町であり八科峠を越えて六地蔵から宇治に向かう三つの街道の分岐点でもあり人の往来が激しく、土産物屋では、伏見人形、深草団扇、深草焼塩、伏見鋸などが売られ、賑わっていました。参勤交代の大名行列はこの墨染から藤森神社の南鳥居の前を進み、西寺町、谷口町を経て山科勧修寺前に出ます。そして、山科川を渡り、小野随心院を北に折れて追分へと大津に向かう道が定められていました。幕末の、慶応3年(1867)12月18日、伏見奉行所に陣を移した新撰組の隊長近藤勇は、京都奉行所の若年寄・永井玄蕃頭との軍議のため二条城に赴きました。この頃、すでに幕府軍と長州軍との間に戦いが始まっていても不思議ではない緊張状態にありました。近藤は護衛約20名を伴っての帰り道、伏見街道が屈曲する、墨染通り付近で狙撃を受けました。狙っていたのは、御陵衛士の生き残り阿部十郎と伏見藩邸にいた篠原泰之進、加納道之助富山弥兵衛らでした。弾は近藤の左肩に命中しましたが、致命傷には至らずそのまま馬を走らせて、伏見奉行所に逃げ込みました。近藤は治療のため大阪に退き、副隊長・土方歳三が新撰組の指揮を執り、近藤は鳥羽伏見の戦いに参戦することは出来なかったのでした。