その5  
鳥羽離宮
 鳥羽離宮跡
  平安の世から、鳥羽は交通の要衝で、都の外湊としての機能、貴族たちの別邸が建ち並び、狩猟や遊興に耽る、風光明媚な場所であった。応徳3年白河上皇により院政の拠点として、鳥羽離宮の造営が着手され、白河以降・鳥羽・後白河、三代に亘って、北殿、南殿、馬場殿、泉殿、などの御堂や広大な池を持つ庭園が東西1km、南北1kmの中に相次いで完成されました。その光景は、まさに「都遷(みやこうつり)の如し」だったといわれています。鳥羽上皇の時代には東殿、田中殿が新たに造営され、更に後白河上皇、後鳥羽上皇まで、4代150年続いたが、院政の終焉とともに離宮内の建物は姿を消していき、南北朝動乱による焼失もあって、現在は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇御陵や城南宮、秋の山(築山)などを残すのみとなっています。
 北向不動院
 北向不動院
 寺伝によると,大治5(1130)年鳥羽上皇の勅願により建立。本尊不動明王は覚鑁(かくばん,興教大師)作と伝え,王城鎮護のため北向きに安置されたことから,「北向不動尊」と呼ばれたといわれています。もとは天台宗延暦寺末寺でしたが,現在は単立寺院。今の建物は,正徳2(1712)年,東山上皇の寄進によるもの。なお,鳥羽上皇の誕生日正月16日には大護摩が修されています。俗に「一願の護摩」と呼ばれ,参詣すると一つの願いが叶うと伝えられています。
 鳥羽天皇御殿 安楽寿院
 
 鳥羽天皇 第74代天皇、諱は宗仁。白河法皇崩御の後、大治4年(1129)に即位して、康治元年(1142)法皇になり、鳥羽離宮で院政を敷いた。院の要職を自己の側近で固め、安定した世を築いた。笛の名人として知られ、催馬楽や朗詠にも優れていた。

鳥羽天皇安楽寿院陵 
 鳥羽殿で亡くなった鳥羽上皇は,遺言に従って安楽寿院の三重塔(本御塔)に埋葬されました。この塔は白河天皇陵にならって,鳥羽上皇が造営したものですが,永仁4(1296)年に焼亡。現在の御陵は元治元(1864)年に造営された法華堂です。
 
近衛天皇安楽寿院南陵
 近衛天皇の遺骨は安楽寿院に所属して建立された新御塔に納められています。この塔は鳥羽天皇の皇后だった美福門院(1117~60)の墓所に予定されていましたが,女院が高野山に埋葬されたため,息子近衛天皇(1139~55)の遺骨が知足院(ちそくいん,北区紫野)から改葬されました。現在の建物は慶長11(1606)年,豊臣秀頼によって再建された多宝塔です。

● 鳥羽離宮 田中殿
 白河法皇(1053~1129)が応徳3(1086)年譲位と同時に,鳥羽に造営した院御所を鳥羽離宮といい,全域180町に及ぶ広大なものであった。白河院没後,鳥羽法皇(1103~56)も引き続き28年間院政を行ったが,その時建てられたのが田中殿(御所)であった。田中殿は皇女八条院(1136~1211)の御所として法皇が造り,殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂等)が附属していた。この石標は,鳥羽法皇院政の地鳥羽離宮田中殿の跡を示すものである。後白河法皇が平清盛に幽閉された所は、この田中殿だと言われている。