その4  
城南宮
 城南宮
 延暦13年(794)の平安京遷都に際し、平安城の南に都の安泰と国の守護を願い、三神を合祀して、城南宮を創建しました。平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められ、城南祭では神輿行列に加え、流鏑馬や競馬(くらべうま)も行われて大いに賑わいました。広さ2k㎡にも及ぶ離宮は政治・文化の中心となり、歌会や雅やかな宴や船遊びも行われ、王朝文化が花開きました。後鳥羽上皇は日照りの時、雨が降り天下泰平であるよう城南宮に祈り 「つたへ来る  秋の山辺の しめの内に 祈るかひある あめの下かな」 と詠まれました。また城南離宮の御殿は、熊野詣の精進所や方違の宿所にも充てられ、上皇や貴族は方位の災厄から無事であるよう祈願しました。このように城南宮の方除(ほうよけ)の御神威は平安時代の昔より顕われています。承久3年(1221)、後鳥羽上皇は朝権を回復すべく城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募り、鎌倉幕府に挑戦して、承久の乱が起こりました。しかし、朝廷側は破れ、これ以降、離宮は疲弊していき、室町応仁年間はその多くの御堂は朽ち果て、消失しました。長い年月苦難を続けてきましたが、城南宮は損壊を免れ、幕末の鳥羽伏見の戦いにおいて、新政府軍が旧幕府軍に勝利すると薩摩の軍勢が総揃いで城南宮の御加護によって勝利を得られたと感謝御礼参りに訪れました。こうした事から、1200年の歴史を重ねてきた城南宮は「方除の大社」と仰がれ、引越・工事・旅行の安全、厄除を願う全国の人々から、日々の暮らしの守り神として篤く尊崇されています。
 
 城南宮からは徒歩で鳥羽離宮南殿に向かい、引き続き150年に亘って4代の天皇がそれぞれ築いた御殿ならびに御陵跡の散策に向かう。