その3  
淀城趾
淀城
  淀は古代から水路、陸路の交差点として栄えてきた。平安時代末期から鎌倉時代後期には「淀の魚市」として栄え、関所が置かれた。室町時代に城が築かれ、江戸時代には、伏見城の廃城に伴い、元和9年(1623)第2代将軍德川秀忠は松平定綱を入府させ、大阪に対峙する拠点として新城を築かせた。北を流れる桂川を堀として取り込み、三重の堀をめぐらし、本丸、二の丸、三の丸そして、西の丸の各曲輪に櫓を建て、堅固な城門、舟入り水門を設けさせた堂々たる城郭であった。城下町として栄え享保8年(1723)稲葉正知が10万石の大名として入城してから、幕末まで稲葉家が治めた。しかし、老中職を務めていた稲葉正邦は、鳥羽伏見の戦いにおいて、敗走する幕府軍が城門前に逃げて来たが、淀城の留守を預かっていた稲葉家の重臣・田辺治之助は幕府軍たちの入城を拒否して、城を開門しなかった。まさかの裏切りでした。そのため幕府軍ははるか大阪城まで歩き、疲労困憊して、惨めな姿で逃げ帰ったのでした。
 與杼神社
 與杼神社 (よどじんじゃ)
  與杼神社の祭神は淀姫大明神、高皇産霊神、速秋津姫960年頃に僧の千観内供が、佐賀県の與止日女神社(よどひめ)より淀姫大明神を勧請して建立したと伝わり、九州の肥前から勧請された神で、その淀姫から、京都の伏見に淀~淀川という地名ができたと言われております。現在ではこの淀のほうが一般的になってしまいました。しかし実際には、三代実録に貞観元年(859)従五位下の神位を賜ったとあり、千観が勧請する以前から淀姫大明神以外の神を祀っていたものと考えられ、927年に書かれた延喜式神名帳にも記載される式内社です。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原で、「大荒木の森」と呼ばれ場所でしたが桂川河川敷の拡幅工事に伴い、明治33年に現在の地に遷座しています。
 妙教寺
 小満・小女郎 (こまん・しょうじょろう)
  かつて妙教寺には、住職により小満・小女郎と名付けられた夫婦狐が住んでいた。 ある時小満・小女郎は勝手に寺の買物帳を持ち出して綿を買い、子狐に着せたり床に敷いたりしていたが、住職に気づかれ寺を追い出される事となった。狐たちはまっすぐ鳥羽街道を京へ上ったが、食うものもなく子連れの難儀さに、とうとう千本御池あたりで小満は倒れてしまった。 その地の貧乏な老夫婦に助けられた狐たちは、お礼にせんべいを作って売るように老夫婦に勧めたところ、美味しさから飛ぶように売れ、老夫婦は出世し金持ちとなった。 この経緯が京に広まり、出世稲荷と名付けられた社が作られ、小満・小女郎は稲荷のお使いとして崇められるようになった。 その後、夫婦狐は住職の夢枕に立ち、昔の罪を詫びるとともに、今後は寺の鎮守として寺を守ることを誓ったという。
淀城周辺の散策を終え、再び京阪線淀城駅に戻る。タイミングよく来た京都方面に向かい、中書島で下車。そこからバスで城南宮へ!