その2  
  長岡京駅の南口を出ると目の前に大きな20階建てのビルが聳えている。半導体メーカーの雄、村田製作所の本社ビルである。このビルの前を通り抜けて、角を右折して、7~8分進むと、小さいながら堂々と構える勝龍寺城に出る。
勝龍寺城
 勝竜寺城
  織田信長の命を受けて、明智光秀の盟友だった細川幽斎が改修したのが勝龍寺城です。幽斎が居城していた頃、北側には二重の土塀があり、敵が攻めてきても簡単に中には入れない構造になっていました。現在は、勝龍寺城土塁・空堀跡を見ることができます。ここ、勝龍寺城は幽斎の息子である細川忠興が、明智光秀の娘玉(たま/ガラシャ)を妻として迎え、2人が幸せな新婚時代の2年間を過ごした思い出の場所なのです。2年後、2人は丹後の宮津に移り住みますが、さらにその2年後に光秀によって本能寺の変が起こり、それぞれの人生が大きく変わりゆくことになるのです。本能寺の変ののち、“天王山・山崎合戦”に敗れた光秀は、この城に逃げ込み、最期の夜を過ごしたといわれています。
  細川 ガラシャ(諱は「玉」)は、永禄6年(1563)、明智光秀と妻・煕子の間に三女として越前国で生まれた。
天正6年(1578)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝の嫡男・忠興に嫁つぐことになり、細川忠興の居城青龍寺城に輿入れした。 美人で利発と評判の高い「玉」と忠興は仲睦まじく、翌年には長女が、同8年には長男忠隆がに生まれた。青龍寺城には2年間を過ごした。玉は、父明智光秀が本能寺で主君・信長を討つと言う事件を犯してのち、忠興に遠ざけられる日々を過ごしている間、侍女を通して、キリスト教に入信し、洗礼を受けて、ガラシャ(恩恵)という名で呼ばれるようになった。
  しばし見学ののち、勝竜寺城虎口を出でて、西に向かい恵解山(いがやま)古墳へ向かう。同所は、山崎の合戦において、明智光秀が本陣を構えたところである。
 明智光秀軍本陣跡 (恵解山古墳)
 山崎の合戦は、天王山と恵解山(いげのやま)古墳の間に流れる小泉川を挟んだところで始まった。天王山中腹に本陣を構える秀吉軍に対して、光秀軍は恵解山古墳の高台に本陣を構えて対峙した。合戦が始まると、兵力に勝る秀吉軍が、怒濤の勢いで、進撃し、光秀軍を打ち崩していった。光秀は、しばし戦場を俯瞰していたが、陣を後にして、一旦、勝竜寺に入った。城内で重臣たちと策を練り直し、夜半に入って、勝竜寺城を抜け出して、京へ向かって退却していった。しかし、途中、小栗須辺りで、落ち武者狩りの土民に襲われ、無念の死を遂げた。
これより、JR長岡京駅にもどり、駅前から桂川を越えて淀駅に向かい、淀城界隈の散策に向かう。