その7  
智積院
 智積院
智積院(ちしゃくいん)は真言宗智山派の総本山であり、正式の名称は、「五百仏山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。京都市東山七条にあります。宗団は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、東京都の高幡山金剛寺、名古屋市の大須観音寶生院を別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約30万人にのぼる檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けられています。鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、大伝法院を高野山から根来山へ移しました。 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。しかし、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を高野山に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を京都東山にしるしました。慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した捨丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出しました。 (智積院HPより)
金堂:  
 総本山智積院の中心的な建物であります。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。
堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
 今回、智積院に訪れたのは、午後4時ならんとするときであったため、大書院や宸殿の襖絵や名勝庭園などの見学は出来なかった。
もし、一時早く着いていれば、下記の写真ような光景を楽しむことが出来たのであるが・・・・
三十三間堂
 三十三間堂も帰路の途中にあるので立ち寄ったが、本日の見学時間が終了したため境内に入れず、外側からのぞき見るのみでした。 もっとも、5年前に京都へ来た折り、訪れて、御堂内も見学したので、概要は理解しているつもりではあるが、整然と立ち並ぶ1000体の観音菩薩像はもう一度見たい。次回をお楽しみに!!