その5  
哲学の道を歩く
熊野若王子神社
 
 若王子神社:京都三熊野の一つ。当社は永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請せられ祈願所とされた正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今日に残る。しかし、仁寿3年(853)創建の禅林寺永観堂は、若王子の祠は禅林寺初めから崇祀して護寺神としているとあるので、もとは祠が禅林寺の護寺神として祀られていたのだろう。神木の梛はかつて紀州熊野詣でや伊勢参宮などの際に禊の木として用いられていたといわれる。現在も「あらゆる苦難をなぎ倒す」ことで信仰を集めている。
霊鑑寺門跡
  霊鑑寺は臨済宗南禅寺派の門跡尼寺である。1654年(承応3)後水尾天皇が皇女を開基として創建。谷御所、鹿ヶ谷比丘尼御所ともいう。御所人形200点など皇室ゆかりの寺宝が多い。石組に特徴のある江戸時代中期の作庭手法を用いた、格調高い池泉観賞式庭園があり、後水尾天皇遺愛の日光椿をはじめ、椿の名木が広い庭を埋めている。
 安楽寺
この地は、もともと法然の念仏道場でした。後鳥羽上皇の女御松虫と鈴虫が、法然の弟子住蓮と安楽の説法に感化され、ひそかに出家して上皇の怒りをかい、住蓮と安楽は断罪に、法然、親鸞もj流罪となり、法然は讃岐国へ、親鸞は佐渡へ流された。寺は二僧の菩提を弔うため延宝 9 (1681)に創建。住蓮と安楽、松虫と鈴虫の木像や石塔が悲劇を伝える。 (詳細) 7月25日の中風まじない鹿ヶ谷かぼちゃ供養は有名である。
法然院
  鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。建永元(1206)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じた。この一件のため、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となるという重大事件であった。世に言う「承元の法難である。これにより、以降草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の延宝8年(1680)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。 
 白砂壇(びゃくさだん)
 山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることの意である
 地蔵菩薩像
 本堂正面の石段上にある。この尊像は元禄3(1690)忍澂和尚46歳の時、自身と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されたものである。
  哲学の道はもともと明治23年(1890)に琵琶湖疏水が完成した際に、管理用道路として設置された道である。当初、芝生が植えられている程度の道であったが、ここを歩いて通行する人々が増えていった。明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し、思案を巡らしたことから「哲学の小径」といわれたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。昭和47年(1972)地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。これに因み、昭和56年(1981)に道の中ほどの法然院近くに、西田が詠んだ歌の石碑が建てられた。

  「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」