その3  
南禅寺
南禅寺の歩み
   文永元年(1264)亀山天皇この地に禅林寺殿を造営し、譲位ののち落飾法皇となり、深く禅宗に帰依した。大明国師無関普門禅師のもとで座禅修業を行った。

   大明国師没後は、南院国師が当山の創建開山を行い、法王の庇護のもと諸堂伽藍の構築に努め、延慶年間に完成させ、南禅寺の基礎を確立した。・当山は足利時代に於いて隆盛を極めた。当時、日本禅宗には、五山十刹制度があり、京都、鎌倉に定められたが、当山は、天下の尊崇篤く、常に最上位に位した。その頃、当山の寺域は数十万坪、山内寺院60、僧房は3000を数える偉観を誇った。 

  ☆ その後、兵乱相次ぎ、諸国の大寺、宮寺は多くの兵難を受け、厄難を遭った。中でも、応仁の大乱はでは、諸堂ことごとく焼失し諸国の寺領の荒廃は甚だしく復興も思うに任せなかった。・安土・桃山から江戸時代に入り、豊臣、徳川の世となってからは復興の気運が芽生え、黒衣の宰相と呼ばれた以心崇伝(本光国師)が住持を務めてからは、復興はにわかに進み、旧観は速やかに復元した。現存する三門、方丈並びに庭園、鐘楼等は崇伝のときに新築、移築されたものである。

  ☆ 明治維新にあたり、所謂廃仏毀釈の風潮により当山も大きな被害を蒙ったが、本末の協力、檀信徒の外護により、次第に面目を回復し禅宗の根本道場としての使命を果たしつつ、今日に至っている。  
金地院 
以心崇伝 (金地院崇伝 15691633

南禅寺金地院は崇伝が南禅寺住持の時、住まいした塔頭である。僧侶としてではなく非常に優秀なブレーンとして役割を担い、徳川家康から、その能力に対する信頼は厚く受け入れられ、のちのキリスト教の禁止や、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度等の制定に大きな手腕を発揮した。法整備をはじめ徳川幕府の繁栄の礎を担っただけでなく、当代一の識者と称えられ三代将軍・徳川家光の諱の選定、元服の日取りも崇伝が行った。江戸幕府のすべての法律制定に関わる優れた学僧として、その権勢は大いに高まっていった。しかし紫衣事件において朝廷の権威を喪失させるなど目的達成の為には強引とも思える政治手法もあり、世人から「黒衣の宰相」と揶揄された。この一件では沢庵和尚に「天魔外道」と評されるほどだった。しかし、崇伝自身は「幕府の安定こそが世の中の安定」と第一に考え平和を長続きさせることに注力し、南禅寺の事は二の次に置いた。家康没後の「神号一件」では、東照大権現を主張した天海に敗れ、そのときの応対に将軍秀忠の不興を買い、一時失脚させられた。しかし、のちに幕閣の取りなしにより許され十万石の格式そして御三家につぐ席次と江戸城内北の丸に約2000坪の屋敷を拝領という破格の待遇を受け復活した。死後、一人で担っていた権能は幕閣に分割され、寺社関係は寺社奉行を新設、外交関係は老中、長崎奉行が管掌、文教外交関係は林家が引き継いだ。

最勝院高徳庵
最勝院高徳庵
  南禅寺裏山、最勝院一帯の山峡は古く鎌倉時代より「神仙佳境」と呼ばれています。最勝院駒道智大僧正は、関白九条道家の子に生まれ幼くして比叡山に登り仏道修行の道に入り、天台密教の深奥を極めました。後に三井寺の官長となり、更に天台密教の禅林寺住持に移りました。晩年、当駒ケ瀧 最勝院に隠棲しましたが、文永三年3月、秘伝の法力により、白馬にまたがり生身を天空に隠したと伝えられています。以来、瀧を駒ヶ滝、僧正を駒大僧正といい、寺を最勝院と呼ぶことなりました。滝は、最勝院の奥域200mほどの位置にある。鎌倉時代末、亀山天皇がこの下に離宮を建てるとき僧正を土地の鎮守として祀り、さらに離宮を改めて寺を創建して南禅寺の基を開くと、僧正は護法神として祀られました。爾来七百余年、南禅寺一山の勝運の神として崇敬され、多くの参詣者を集めています。