その1  歩数 20,813歩   距離 12.1km
知恩院
 知恩院とは、京都府京都市東山区にある、浄土宗の総本山です。浄土宗の宗祖、法然が開基しました。法然没後、江戸時代に現在の規模になり、大小106の伽藍からなります。国宝の日本最大と言われる三門は高さ24メートルにもなります。法然は、知恩院勢至堂付近に草庵をかまえ、承元の法難で流罪になる晩年の数年を除き、43歳から80歳までのほとんどの人生を、ここで布教することに費やしました。その後、江戸時代に徳川家が数々の伽藍を建設しました。国宝として有名な三門を始め、経蔵、勢至堂などは、火災の被害にあっても再建されました。三門から本堂へと続く坂には、男坂という石段と、女坂という緩やかな坂があります。三門は、空門、無相門、無願門という悟りに通じる三つの解脱を表しています。「物事に執着しない」「見かけで差別しない」「欲望のままに求めない」の三門脱門という意味があります。門をくぐれば、一歩ずつ仏の国へ行けるという考え方をとります。法然の生きた時代は政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から阿弥陀仏のご本願を見い出します。それは「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春、ここに浄土宗が開かれたのです。法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水の草庵、現在の御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れて、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実(くじょうかねざね)などの貴族にも教えは広まっていきました。
 青蓮院門跡
 青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして知られ、現在は天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられています。青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院とされております。平安時代末期、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が帰依されてその第七王子を弟子として、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称したのが門跡寺院としての青蓮院の始まりです。第一世の門主は行玄です。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族か、五摂家の子弟に限られていました。青蓮院が最も隆盛を極めたのは、平安末期から鎌倉時代に及ぶ、第三代門主慈円藤原兼実の弟)の時です。慈円は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡しました。また、日本人初めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」も残しております。慈圓は、時代の流れにも積極的な理解と対応を示し、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致しました。それ故、現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。浄土真宗の祖親鸞聖人は、慈円門主のもとで得度したことから、青蓮院は同宗の聖地の一つとなっています。親鸞聖人の得度の折、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、境内北側にあります。十七代門主の尊円法親王は伏見天皇の第六皇子で、名筆家として知られています。和風唐風を融合した尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流でもあります。室町時代には後に室町幕府第六代将軍足利義教となる義圓が門主を務め、また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けています。江戸時代の天明八年(1788)に、大火によって御所が炎上した時に、後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難しました。庭内の好文亭はその際には御学問所として御使用されたものであります。また、青蓮院は粟田御所と呼ばれて国の史跡にも指定されています。
粟田神社
粟田神社
京の七口の一つである粟田口に鎮座し、古くから旅立ち守護の神として崇敬を集めており、現在でも旅行に出発するに際し絵馬を奉納する人がいる。元は「粟田天王宮」と呼ばれていたが、明治になり「粟田神社」と改められた。例年10月15日に行われる例大祭、粟田神社大祭には剣鉾巡行と神輿渡御が行われ、粟田祭の剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれている。
仏光寺本廟
   佛光寺本廟は、京都東山の地に宗祖親鸞聖人の法灯を伝える御廟所(お墓)であり、真宗佛光寺派信者の墓所でもあります。平安中期の名刀匠 粟田藤四郎(三条小鍛治)の墓も当所にあります。 真宗佛光寺派は浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗大谷派(東本願寺)に並ぶ真宗教団連合の一派で、各派と共に宗祖親鸞聖人の教えを普及する活動に取り組んでいます。
 親鸞聖人は、承元の法難で越後流罪に遭われましたが、ご赦免の翌年建暦二年(1212)京都に帰り、山科の地に草庵を結びました。この草庵が佛光寺の始まりと伝えられています。親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世了源上人になって、教化活動の拠点を京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。後醍醐天皇時代、朝廷から寺号を賜った佛光寺は益々隆盛していきました。しかし、その一方延暦寺の弾圧が強まり、応仁の乱を境に寺勢は次第に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなりました。天正十四年(1586)には豊臣秀吉の要請により、寺基を五条坊門に移しました。京都の中心部に移転して四百年余り、その間にも多くの法難に見舞われましたが、門末の念仏相続のご懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれ今日に至っています。