その5  
琵琶湖疎水
  琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)である。滋賀県大津市三保ヶ崎で取水して、水力発電、灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。疎水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。今日でも無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。
長等神社
長等神社
天智天皇が天智天皇6年(667年)に近江大津宮に遷都した際、長等山の岩座谷に建速須佐之男大神を祀ったのが始まりである。
貞観2年(860年)2月、前年に園城寺初代長吏に就任した円珍が、園城寺の鎮守として当社に山王権現を合わせて祀り、園城寺の鎮守社とし、社名を延暦寺の鎮守である日吉大社に対応して新日吉社、またの名を新宮社とした。天喜2年(1054年)4月、長等山上から現在地に遷座する。 南北朝時代の建武3年(1336年)に戦乱に巻き込まれて社殿が焼失するが、暦応3年(1340年)に室町幕府将軍足利尊氏により再建される。 
長等山公園 
 
歌人としても優れており藤原俊成に師事した正四位下薩摩守 平忠度は平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託した。「千載和歌集」に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している

~  さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな  ~

唱歌「青葉の笛」 (大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)
♪ 更くる夜半に門を敲きわが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは花や今はの際間 ♪