その2  
比叡山
  比叡山延暦寺とは、滋賀県大津市坂本本町にある日本天台宗の総本山で、東塔、西塔、横川、の3つのエリアにある150ほどあるお寺の総称です。平安初期に最澄によって開創されました。平安時代の仏教の中心を担った寺院です。密教では、東寺の真言宗を東密と呼ぶのに対して、比叡山延暦寺の密教を台密としています。比叡山は高野山と並び、歴史的な信仰対象の山として知られています。 比叡山延暦寺は、比叡山の山上から東麓にかけてある三塔十六谷の総称になっています。延暦というのは、開創時の年号からきた寺号で、最澄が亡くなってからついた名称です。京の都を西に、琵琶湖を東に臨むロケーションから、平安京の鬼門を守る道場として、天台密教の拠点として、多くの高僧を輩出したことでも知られています。武装化した僧兵の拠点として長く歴史に名をとどろかせ、戦国時代には織田信長と争い、焼き討ちされた歴史があります。現在でも千日回峰行という荒行で厳しい修行が続けられていることでも有名です。
延暦寺
東塔地域
 根本中堂
   比叡山東塔にある延暦寺の中心道場。もとは開祖最澄が788年に創建した一乗止観院で、自ら刻んだ薬師如来像を安置。1571年に織田信長の焼き打ちで、堂宇の大部分が焼失しました。その後、3代将軍徳川家光が8年かけて再建し、1642年に現在の姿になりました。創建以来1200年ともり続ける「不滅の法灯」は、焼き打ち前に分灯されていた火が移され、僧侶が毎日油を足すなどしてともり続けています。現在、根本中堂は、10年懸りの大改修工事中ですが、その工事状況は次の詳細で聞くことができます。(詳細
 
   法華大会広学竪義における法華十講は、宗祖伝教大師が天台大師への報恩のため延暦17年(798)その命日である11月(霜月)に始められた「霜月会」と、伝教大師滅後その弟子達が報恩のために6月に始めた「六月会」から成ります。法華十講は『法華経』八巻と開経と結経の二巻を合わせた計十巻の経典を講師が講義し、問者が講師に法華経の教えを乞う形で問答の往復が繰り返される「論義法要」を以て厳修されます。広学竪義は天台宗の僧侶として幅広くその教えを学べているか、法華経の真理を究めて正当な義を立てることができているのかが問われるたいへん重要な竪義(試験)であり、多くの質問者からの厳しい問いに受け答えをしなければなりません。
檀信徒の先祖を供養の回向道場 日本全国六ケ所の聖地の宝塔を総括する最高峰の宝塔
西塔地域
にない堂
   同じ形の二堂は左が阿弥陀如来を本尊とする「常行堂」と右が普賢菩薩を本尊とする「法華堂」で、創建は9世紀といわれますが、現在の両堂宇は文禄4年(1595)の再建と記されています。両堂とも方五間の正方形平面で、側面後部で唐破風屋根の渡り廊下でつながれており、弁慶がこの廊下を天秤棒にして御堂を担いだという伝説が残されています。「にない堂」の呼び名はこの廊下に肩を入れて弁慶が担ったと伝えられることに由来します。つまりは全体の形が天秤棒に似ているところから「担い堂」の称が生まれたわけです。常行堂の常行とは、90日間、不眠不休で堂内を読経して回り、”南無阿弥陀仏”の御念仏を称え続けて、ついには悟りを開くという荒行の常行三昧を行なう御堂の意です。同様に、法華堂は法華経をそれぞれ読経し、修行する道場です。これは、法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表しており、御堂が渡り廊下でつながっている理由もそこにあります。 
 これより下山へ
 比叡山の下調べを十分しなかったため、東地域で思いのほか時間を浪費してしまった。
西地域をトンボ帰りして、横川地域は割愛しました。